ポリコレは文化の去勢|政治的正しさは多様性を奪い文化を骨抜きにする

近年では「差別を助長する作品」「弱者の辛い過去を思い出させる不快な表現」などと言って、作品内の表現を非難し、表現の削除や作品の改善・撤去を求めようとする意見が多く見受けられる。

しかしこのような行為が、作者の表現を踏みにじるものになることを、彼らは理解していないようだ。

少数派や弱者の意見は大事かもしれないが、しかし表現には往々にして重要な意図やメッセージが含まれており、そのような作者の意図を汲み取ることなく、時代設定や世界観を考慮することなく、感情的に物事を非難しようとする昨今の社会正義論者たちの姿勢には大きな問題がある。

作品内で人々の被害や苦しみを描き、その問題を現実世界の人々に知ってもらうこともまた、作者の願いであり、それは作家の使命でもある。

その機会を奪う権利は私たちにはないはずだ。

ポリコレの行き過ぎた圧力は、将来の課題を見据えて問題提起を投げかけることさえままならない殺伐とした社会をもたらす。弱者への理解を深める機会や、歴史の教訓を得る機会、差別意識に対する議論の切っ掛けを失うことにもなり兼ねない。問題提起の場や、教訓や危惧を共有する場を失うことにもなる。そして人々を盲目にしてしまうのだ。

クレーマーの意見や要求に素直に応じることは、すなわち作品や表現の死を意味する。ひいては文化の死をももたらす。そして社会が崩壊したその時に、人々はまた同じ過ちを一から繰り返すことになるのだ。

一つの規範に沿った作品だけが多様性を獲得するのではない。
様々な作品や表現が許容される社会にこそ多様性はもたらされる。

物語は人間の多様性と柔軟性を担保するための装置として機能している。変わりゆく世界の中で、人々は物語から得た教訓や体験を活かし、困難に向き合ってゆく。しかしポリコレが行っていることは、多様性に制限をかけ、人々を一つの理想へと誘導することだけだ。

社会が崩壊したその時に、人々は果たしてそのお花畑のような生ぬるい理想を元に、混沌とした世界へ適応することができるだろうか。人間に飼いならされた犬たちは人間のもたらす持続的な環境なしには生きられない。ポリコレは文化的去勢を仕掛ける残酷な善意である。ポリコレは今ある社会が持続する前提の元に成り立った理想に過ぎない。ポリティカル・コレクトネスが絶対的な正義たり得ないのはそのためである。

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