KuTooは政治ではなく社会で解決するべき問題なのでは

パンプス強制に対する厚労相の見解に対して激しい失望を抱いている者たちを見かけるが、それはお門違いというものだろう。

政府の意見にすがる前にまず、社会の暗黙的なルールや同調圧力といった根底の部分に目を向けるべきではないか。

社会の問題を政府の問題にすり替えていても仕方ない。日本社会に根付いた古臭い慣習や見えない圧力に対する反抗こそが、このKuToo現象の本質なのではないのか。

会社での体裁や同僚からの目を気にしてしまう気持ちも分かる。他人からどう見られるかが気になってしまったり、言いたいことを堂々と主張できないのが日本社会の悪いところだ。しかし絶対的なルールや権力だけで社会の生きづらさや人々の意識を変えられると思わないほうが良い。根本的な問題に目を向けない限り、問題の元凶は社会の奥深くで生き続ける。永遠に法律や国の指針に頼り続けるつもりなのか。そこで得た自由は本当の自由とは言えないだろう。そんな融通の効かない社会よりも、もっと自立した社会を目指すべきではないか。まずは社会での対話である。会社との相談である。権力に頼るのはその後であろう。

KuToo運動はあまりにも脆弱なシナリオの上で成り立っている。方向性や手法は一貫しておらず、複数の思惑が複雑に絡み合った状態にあり、もはや正常に機能できていないようにすら思える。問題提起としてはあまりにもお粗末で行き過ぎている。今のKuTooのやり方では必ず政治的な反発や感情的な反感が生まれてしまう。そして人々の不毛な争いと混乱の中でこの問題の本質は埋もれ続けたままとなる。

女性は自分たちの意思で自由に健康的な靴を選ぶべきだと思う。しかしKuTooやネットメディアのやり方には違和感や危うさを感じずにはいられない。

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