「外国人」の省略形としての「外人」
「外国人」のことを「外人」と呼ぶ人々は、「害人」や「よそ者」という侮辱の意味でその言葉を使っているわけではなく、むしろ多くの人々は「がいこくじん」という長い言葉を“略している”という側面が強い。それは短縮形として用いられる「外車(外国車)」とて同じことである。
であるからして、「外人」という言葉を無自覚に用いる者たちのことを差別主義者と決めつけてしまうようなポリティカル・コレクトネス的なやり方には大きな問題があり、したがって我々はより建設的な問題解決を図っていくべきだと思う。※1
政治的正しさが公共の福祉を損なうという問題
そもそも「外人」という表現を差別的と見なし、過剰に問題視する風潮は、差別的な意図を持たない者たちに差別主義者のレッテル貼りや、理不尽な偏見をもたらすものであり、それはすなわち公共の福祉を著しく乱すものに他ならない。「外人」という表現を用いる悪意の無い者たちが差別視され軽蔑されるような殺伐とした社会を容認することに等しい。
政治的正しさは、その社会秩序の混乱や世代の分断というトレードオフの上に成り立っていることに留意しなければならない。
言葉や人と向き合うことから始める
したがって我々がするべきことは、「外人」という表現を差別的と決めつけ、頭ごなしに否定し、同調圧力をもって排除しようとすることではなく、まずは「外人」という表現を不快に思う者たちと議論を行い、対話を重ね、お互いがお互いの意図を理解し合うことから始めるべきではないだろうか。
それによって、仮に否定派が公共の福祉に配慮し「外人」という表現を容認するようなことになれば、それはそれで新たな正義としての意義を持つだろうし、「外人」という表現が容認されてもなお「外人」という表現のもたらす誤解に配慮し、自主的に「外国人」という表現を意識して用いるような者たちが生まれれば、それもまた大きな前進となる。
人々の心からの理解と自発的な意志によってのみもたらされる配慮や思いやりこそが貴いのであり、それは政治的正しさの強要という一方的な押し付けの正義では決して勝ち取りえないものである。
正義や多様性、自由や平等は、「寛容」や「信頼」という存在の上にのみ成り立つものなのではないか。
現代の社会は、なぜそんな当たり前のことを忘れてしまったのだろうか。
我々が目指すべき正義とは何なのだろうか。