「障害者」と「障がい者」
近年では「障害者」を「障がい者」と言い換える動きが見られるが、このような行為はかえって障害者への偏見を強め、差別を助長することにならないだろうか。
そもそもこの言い換えは、「障害者」という言葉に「害」という文字を含めることが特定の人々に不快感を与えるものであるため「障がい者」と改めるべきである、という問題意識が発端となって広まったものである。
しかしこの運動は、タブー視され表に出ることのなかった偏見と差別意識を「見える化」し、人々の偏見や差別心を喚起させることに繋がらないだろうか。存在しなかったはずの偏見を創造してしまう恐れだってある。
そのような余計な可視化によって、障害者が「害」をもたらす存在であるという偏った認知や、誤った承認を、逆に広げてしまうことにもなりかねない。言葉を変えたことによって、逆に偏見や差別が増えてしまう恐れがある。
これでは当事者の不安をいたずらに煽ってしまうだけなのではないか。
言葉狩りに終わりはない。
「障がい者」などと言って「がい」という言葉をことさらに強調する行為のほうが、よほど陰険で差別的なのではないか、という問題提起が考えられる。
これによって「障がい者」表記の存在意義は容易に否定できてしまうだろう。
「障“害”者」という表現を不快に思う人々がいるのと同じように、今度は新たに「障“がい”者」という呼び方に不快を覚える当事者が出てきてもおかしくはないからだ。
当事者が不快と思うのであれば、その意見は丁重に扱われなければならない。それがポリティカル・コレクトネスのもたらした不条理な現実であり、この世の矛盾でもある。
あるいは実際に、誰かが障害者を揶揄する目的でその「障がい者」や「障がい者()」という言葉を使い始めるようになるかもしれない。
ではポリコレの意図する理念に則って、その差別的な表記を「しょうがい者」へと置き換えてしまえば、この混乱はきれいに無くなり、すべてが丸く収まるのだろうか。「しょうがい者」という表記に「障碍者」のひらがな表記としての側面を加える形で、この問題の帰結を図るというのはどうか。
しかし実際には、その取り組みもまた上手くいくことはなく、いずれまた別の新たな意見の対立が生まれるだけだろう。
表現の置き換えに終わりはないのだ。
その場しのぎで言葉を変え続けていても差別が無くなることはない。
ポリティカル・コレクトネスがもたらしたのは無限の正義の対立だけだった。
我々はいつまで表現の不毛な置き換えを続けるつもりなのだろうか。
言葉ではなく人と向き合うべき
本当に必要なのは、言葉を変えることではなく、当事者と向き合うことではないだろうか。
当事者の抱える不安や孤独に寄り添い、共に解決策を探していくことが何よりも必要なのではないか。
「障害者」は「社会の障害となる者たち」ではなく「社会の障害と向き合う者たち」であるという、広く支持されたその言葉の捉え方をお互いに理解し合うことによって、その困難と向き合うこともできるのではないだろうか。我々もまた、彼らが日々向き合っている社会の目や大きな段差と向き合わなければならないのである。
この政治的正しさが過剰に求められる現代においては、今後は言葉を変えるのではなく、言葉の意味や捉え方を変えたり、表現に肯定的な意味を見出すということも、解決策の一つとして考えるべきだと思う。
差別に屈して言葉を手放すのではなく、その差別と正面から向き合うべきである。
その不快と思われている言葉にポジティブな意義付けをしていくことも必要だと思う。
言葉の本来的な意味を周知させ、人々の誤解を解いていくことも大事だ。
言葉や世界を変えるよりもまず人を変えるべきである。
何かを一方的に強制し、それに従わない者たちを敵視するようなやり方ではなく、人々がお互いに向き合い、言葉の意味と向き合い、未来を見据えた対話によって解決策を模索していくことが重要なのではないかと思う。
言葉を変えただけで差別を無くした気になってはならない。
それは非常に無責任な対応であり、弱者と真に向き合うものとは言えない。
向き合うべき現実から目を背け、問題を先延ばしにし、その負担を次の世代に押し付けているだけだ。
言葉を変えてもお互いが変わらなければ何も変わらない。
言葉を変えるよりも先にやるべきことがあるのではないだろうか。