海外ではアジア人特有の「つり目」や「細目」「タレ目」をジェスチャーで表現することがタブーとされているようだが、これは当事者からすれば余計なお世話ではないか。差別的意図でもって細目を表現する者たちへの糾弾は大事だが、必要以上に騒ぎ立てることは、かえって細目の人たちを傷つけることに繋がるのではないだろうか。細目表現を差別や不謹慎といってしまうことで、あたかも細目が劣った悪いものであるかのような風潮や常識が定着してしまうように思えるのだ。※1
もちろん「細目問題なんて相手にするな」だとか「タブーを表に出すな」などと言うつもりはない。少数派の嫌悪や憎悪、誤解を表面化させることは大事である。相手の過ちを改めさせる機会が得られなければ、誤解や嫌悪・憎悪は人々の意識の中で膨らみ続ける。だからこそ、人々はこの現実から目を背けることができないのだろう。つり目ジェスチャーが欧米社会でここまで問題になるということは、やはり行き着くところまで行ってしまったということの表れなのかもしれない。※2 ※4
しかし同時に、我々当事者に必要なのは反発や応酬ではなく「そのようなステレオタイプなんて気にしていない」「ばかばかしい」「悪意がないのなら気にしない」「私達は自身の容姿やアイデンティティを誇りに思っている」といった強い意思表示ではないだろうか。それを見失ってしまった先にこそ、より醜い差別と偏見の世界が待っているように思うのだ。そこにあるのは本質を失ったまやかしの正義と幻想の悪、そして醜い利権だけである。
細目の表現を問題視してしまうことはある意味、細目に対して偏見や、なにかしらの不快感や劣等性を認知していることの現れでもある。偏見を持っているからこそ、なにかを差別と思ってしまう。彼らは善意や正義感でもって偏見や差別を訴える一方で、その当事者たちに偏見と哀れみの目を向けてしまっているのである。これもまた偏見や差別の裏表なのではないだろうか。※3
また、差別表現を批判する彼らの行動は、ポリティカル・コレクトネスという政治的な正しさを盾にして言葉狩りを行う社会正義論者たちの行動と重なるものがある。「細目ジェスチャー」や「黒塗り」といった差別表現を糾弾する彼らもまた、無知な人々を差別的な人間と決めつけ、正義を押し付け、寛容な自分たちの崇高さに酔い、優越感に浸っている。そんな彼らもまた差別的なのである。無配慮で無自覚な人間に差別主義者のレッテルを貼って差別しているのである。それは自分たちよりも意識の低い劣った者たちに対する理不尽で陰湿な攻撃であり、遠回しな憎悪表現でしかない。不寛容で見苦しいマウンティングに過ぎない。しかし正義感という快楽に酔いしれる彼らは、決してその罪深さと向き合うことはないのだ。自分たちが正義の側にいると頑なに信じ、その陰険な攻撃に高揚感を見出している。つまりは、昨今の先鋭化したポリコレ論者となんら変わらない存在なのである。
そんな彼らに厳しい目を向ける私もまた、差別的な人間だと思う。この世に絶対的な正義など存在し得ないのだろう。あるのは個人の主観と観測、そして折り重なる無限の憎しみだけである。その重なりは円を成して、同じ過ちを幾度となく繰り返している。我々はこの終わりのない不毛な循環に取り込まれた一瞬の存在に過ぎないのだ。我々に本当に必要なのは、目の前の問題を闇雲に解消していくことではなく、この不毛な悪循環から抜け出す方法を考えることではないだろうか。
我々には今、自分たちの認識と向き合い、お互いに対話し、耳を傾け合い、自らの考えを改めようとする姿勢が何よりも求められているように思う。善意や正義感は、それをどう認識し扱っていくかが重要であって、決して自身を正当化したり、対立する相手を侮蔑しバッシングするための道具であってはならないと思うのだ。
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自己満足のための慈悲ポルノとして創造された正義 ※1
要するに余計なお節介なのである。当事者のあずかり知らぬところで行き過ぎた認識や差別が創造され、その差別意識や偏見がいつの間にか世界の共通認識として普遍化し定着してしまう。こんな恐ろしいことは他にないだろう。
それらはいずれ、気に食わない他者を侮蔑し威圧するための棍棒として利用されることだろう。人種の優位性を自覚したり正義感を満たすための慈悲的なポルノとして消費されるようになる。人々の気持ちを弄び、不毛な対立を煽り、売名と金儲けのために正義を主張するような者たちを生み出す。
人々はいずれ自分たちがなぜ争っているのかも忘れ、本質的な意義を持たずしてお互いを傷つけ合うようになるだろう。これは黒人差別の問題やLGBT、フェミニズムの問題にも言えることだと思う。
無自覚な「外人」問題と無知な「つり目ジェスチャー」 ※2
あるいは、これは日本で言うところの「外人(外国人)」問題と似たようなものなのかもしれない。日本では「外国人」を「外人」と略すことがタブー視されている。これは「外人」という言葉を「害人」や「よそ者」という意味合いで受け取ろうとする者たちがいるためだ。しかしおそらく「外人」を用いている大多数の者たちにそのような意図や悪意はないと思われる。これはおそらく無邪気に「つり目ポーズ」を行ってしまう外国人とて同じことなのだろう。彼らは日本人が無自覚に行ってしまう外国人風の付け鼻や黒人風の黒塗りと同じような感覚で「つり目ポーズ」をしてしまっているのではないか。要するに悪意も差別の意識もなく単にお互いに無知なのである。であれば、我々がすべきことは、他人を差別主義者と決めつけて糾弾することではなく、相手の認識不足や無自覚と向き合うことであろう。つり目ジェスチャーはアジア人を傷つけるから悪いのではなく、それを行うこと自体がそもそも配慮がなく恥ずかしい行為だから悪いのだという、そういう至極当たり前の発想からスタートするべきだったのではないか。
多数派を叩く口実として差別意識が利用される ※4
はたまた、アジア人を揶揄する行為を問題視する外国人は、アジア人への善意としてその行為を問題視しているようでいて、実は自国の気に食わない者たちを叩く口実として、都合よくその状況を利用しているに過ぎないという見方もできる。たとえば、日本でも韓国のことを「キムチ」と揶揄する右翼系の人々が存在するが、彼らの無礼に怒る左翼系の者たちは韓国のために怒っているのではなく、憎んでいる右翼を攻撃して自分たちの日頃の恨みを発散させるための手段として、その状況を利用しているとも考えられる。差別意識が闘争の道具として利用されてしまっているという側面があるのだ。他人の被害者意識を不必要に煽って自分たちに都合の良いように利用しているのである。
慈悲的人種差別|差別表現の批難と抑圧された差別感情の発露 ※3
差別表現を糾弾する者たちは、嫌いなものを嫌いと言えないがために、別の方法でその憎悪を表現しているとも考えられる。
差別表現を非難する者たちの中には、マイノリティを腫れ物のように扱うことで間接的にマイノリティを傷つけようとする陰湿な者たちもいるかもしれない。「醜い彼らの真似をするな、可哀そうだ」「マイノリティ様がお怒りになるぞ」と言って遠回しにマイノリティへの嫌悪を吐露し、揶揄し、内なる憎悪や不満を発散しているわけだ。なにより恐ろしいのは、それが無自覚に行われているかもしれないということである。不快なものを間接的に排斥するための行動が無意識のうちに取られてしまっている可能性が考えられる。
時に差別表現を非難する者たちは、マイノリティを美化する表現にさえ批判の矛先を向けようとする。自分たちよりも劣った存在が注目され認められ称賛されることに耐えられないのかもしれない。あるいは表現によって、劣った彼らを連想させられてしまうため、それが不快で目障りに感じられるのかもしれない。主体的に振る舞う生意気な彼らを憎たらしく感じているのかもしれない。差別表現を批判する者たちは、表現者を批難すると同時に、その裏にいるマイノリティの存在を抑圧してしまっているのである。第三者がマイノリティのあるべき姿を規定し束縛してしまっている。
このような行き過ぎた差別意識によって、企業はツリ目のモデルや黒人のモデルを広告に採用することのリスクを回避するようになり、結果として、彼らの活躍の機会は失われることになる。彼らの露出を自粛させることで、彼らの存在そのものを実質的に排除してしまっているのである。
差別表現を非難する者たちの行動は、時の流れと共に薄れゆく差別と偏見の感情を継続させ社会に顕在化させるための行為でしかない。マイノリティの存在を認めて受け入れるのではなく、「抑圧される彼ら」という存在を存続させ、彼らに寄り添う「慈悲深い私たち」という優越した状況を維持し続けようとしている。
侮蔑の対象である者たちに有利になる機会を与えたくないがために、その対象に対して「被害者意識」や「自己肯定感の低下」を植え付け、彼らのあるべき姿を押し付けてしまっているのである。弱者を「抑圧される可哀想な私たち」という枠に閉じ込め、彼らの意識や行動を異なる方向に転換させ、彼らの上昇の機会や行動の自由を間接的に奪っている。この行き過ぎた干渉は明確な抑圧的行為であると同時に、ある種の牽制行為でもあり、これは新たな差別の形であるとさえ言える。弱者に寄り添う「慈悲深い私たち」という優越的な地位を維持するために、弱者の主体性や活躍の機会を奪い、彼らを特定の領域に留めようとしている。昨今の先鋭化した「政治的正しさ」や「文化の盗用」を追及する者たちもまた慈悲的抑圧を仕掛ける牽制的差別者であり、彼らの行為は弱者の地位を固定化するものでしかない。
この社会に本当に必要なのは、マイノリティを特別な存在として隔離することではなく、当たり前の存在として認知することではないだろうか。