ニワカによるオタク文化の奪取とオタク差別の再来|にわか嫌悪について考える

昨今のオタク差別の再来は、オタク文化が大衆化したことと大きく関係しているように思う。

大衆のオタク化がライトなオタクやニワカを生み出し、彼らの配慮のない振る舞いがオタク嫌悪を再び呼び覚ましたのである。

そこにはニワカに向けられるべき嫌悪がオタク全体に向けられてしまっているという恐ろしい現実がある。

従来型の控えめなオタクは社会の目を恐れて日陰でこっそりとオタクコンテンツを嗜んできた。しかし現代型のオタクは欲望のままに性を求めるようになり、社会には彼らのニーズを満たす「萌え」が溢れるようになった。

それは女性の生理的嫌悪感を誘い、世間のオタク嫌悪をより一層強くし、オタク差別の再来を招いたのである。

マイノリティで劣等なオタクがまるで市民権を得たかのように振る舞い始め、我が物顔で自分たちの社会領域になだれ込んできた。人々にはそれが気に食わず、我慢ならないと感じられたのだ。

そして従来型のオタクもまた現代型のオタクに対して嫌悪を示している。これらはオタク嫌悪というよりは、ある種のニワカ嫌悪と言うべきものであり、以前のものとは構造もより複雑に変化している。

そこにはヒエラルキーの上位に位置するオタクが下位に位置するニワカに対して抱く嫌悪の感情がある。なお、ここで言う「上位に位置するオタク」というのは、真オタクに限らず、オタク的性欲を有した一般人や、裏の性欲を抱えたオタク嫌悪者も含まれている。自分たちのことをオタクだとは思っていない人種が、オタクもといニワカに対して嫌悪を抱いており、それが昨今のオタク差別を助長する一つの要因ともなっている。

参考:オタク嫌悪と自己投影|萌え絵への不快感について考える

社会のモラルを優先する上位オタクの意に反して、ニワカは自分たちのルールと欲望を優先させる。自分さえよければそれでいいという考えで、既存の領域に土足で踏み込み、我が物顔で文化の悦びを享受する。既存のオタクたちにはそれが堪らなく不愉快に感じられるのである。妬みの感情だけではなく、自分たちが積み上げ守ってきた文化が乗っ取られ壊されていくことの不満や憤りを感じている。もはやニワカは自分たちの居場所を占領する侵略者であり、集団の和を乱す脅威として敵視される存在でしかないのだ。彼らはイナゴのように文化を食い荒らし、全てを燃やし尽くして去ってゆく俄な存在でしかない。

これらはまさにニワカによるオタク文化の奪取と言うべきものだ。既存のオタクは、愛する文化をコツコツと積み上げ、周りに迷惑が掛からないよう日陰でチビチビとそれを摂取してきた。一方で、突如としてやってきたニワカたちは、何の配慮もなく豪快にそれらをバクバクと全裸で貪り始めたのである。その姿は性に溺れた醜いものである。社会がそれを拒絶することも分かりきっている。彼らの存在はオタク全体のイメージを落とすものであり、集団の秩序と平穏を乱す脅威でしかない。

だから上位者は既存のルールと集団を守るために、異物たる彼らを嫌悪し排斥しようとする。しかしそれはオタクという存在を自己否定することに繋がるため、そう容易なことではない。結局はニワカに対する嫌悪の感情が膨らみ続けるだけで、彼らの暴走を止めるには至らなかった。それどころか、オタクは彼らに同調し始めた。オタクコンテンツが社会に認められたと勘違いし、オタクが市民権を得たと歓喜した。

市場経済はオタクコンテンツを過剰に求めるようになり、巷には萌えが溢れるようになった。それはポスターやゲーム、CM、パチンコ、イメージキャラクター、キャスター、タレントなど分野は様々である。それらを見た世間は、嫌悪と批判の矛先を、暴走するニワカ勢力にではなく、オタク全体に対して向け始めたのだ。

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