人々の意識について考える|ネット世界の時間感覚、残業デー、元号改正、宗教と戦争

目次

ネット世界の感覚と意識

ネット世界と現実世界の時間感覚

一年はあっという間だが、短期的にはむしろ時間の流れは緩く感じられるように思える。3日前に知った出来事やニュースが、3週間以上前の出来事のように感じられる事がある。

同様に、現実世界の一年はあっという間に過ぎるが、ネット世界の一年はえらく長く感じられる。現実とネットでは時間の流れ方や感じ方が異なっているように思える。

無意識による情報の摂取と意識への侵蝕

思えば、ネットの世界では絶えず真新しいことが起こっている。ネット上での新しい経験や体験が増えるほどに、時間経過に対する感覚も広くなっていくのだろう。

またネット上では不要な情報や特定の情報に触れる頻度も多くなる傾向にある。意識をしていないつもりでも、タイムライン上やサイドバー上、広告上の情報によって無意識のうちに不要な情報に接している。嫌でも目に入ってしまう情報に継続的に触れることによって、その特定の情報に対する時間的感覚は緩やかに広がっていく。

ネットの世界では常に膨大な情報と接することになる。情報の過剰摂取が起こっている。不要な情報を取り込みすぎると、本当に重要な情報や経験が曖昧な存在として不要な情報の中に埋もれてしまうのではないか。

フェイクニュースによって生み出された情報や人々の反応、誇張された見出しや語弊を招くような見出しによる情報、大衆の誤った反応や偏った解釈、断片的なサマリー、その他のノイズ的な情報を無意識のうちに浴び続けるとどうなるのだろうか。無意識によって取り込まれた未検証の情報や実体のない情報の積み重なりは、いずれ我々の意識や思考を飲み込んでしまうかもしれない。

それはいわゆる妖怪のようなもので、いつしか我々の思考や行動をも支配してしまうのだろうか。この意識を持たないゴーストは、今もなお知覚されること無く情報の海の中を漂い続けている。

ノー残業デーという束縛

ところで私は「ノー残業デー」というものが受け入れられない。これは残業が当たり前になってしまったどうしようもない企業が取り入れるものだ。本来、残業というものは滅多に行われない存在であるべきだと思う。残業は悪いことであって、当たり前のように行われることであってはならないのだ。

「ノー残業デー」を取り入れるということは、残業だらけの企業体質を認めることになる。現状を認め、それを改善しようとする姿勢を示すことも大事だとは思うが、逆に「ノー残業デー」を取り入れたことによって、「ノー残業デー」以外の日は残業をしてもいい日というお墨付きが得られてしまったのではないかという気もして、どうにも納得がいかない。「ノー残業デー」以外の日は「残業をしなければならない」「思う存分残業をしてくれ」という暗黙の強制や緩い同調圧力のようなものを感じなくもない。

逆に週3日程度の「残業デー」を取り入れれば、より良い意識が生み出せるのではないかという気もしてくる。これによって「残業は仕方のないこと」ではなく「残業は悪いこと」という意識に繋げることができるのではないか。我々に本当に必要な意識は、こういった意識なのではないだろうか。

もちろんこれらが理想に過ぎないことは分かっているのだが、多くの人間がこれを理想と言い切ってしまう限りは、なにも変わらないとも思う。

プレミアムフライデーの波紋

国民の仕事に対する取り組み方や意識を変えるというのが、あのプレミアムフライデーの本当の目的だったように思える。だから別に3時退社にこだわる必要は無いのだ。実際にプレミアムフライデーは無理だけれど「ノー残業デー」や「定時退社推奨日」は取り入れてみようと考え始めた企業もそこそこあったのではないかという気がする。月末の金曜は残業を控えて皆で飲みに行くような習慣を取り入れ始めたイケイケ社員も多いのではないか。いずれも勝手な想像だが。

プレミアムフライデーは習慣を生み出すためのきっかけに過ぎず、3時退社の浸透や消費の拡大はそのおまけみたいなものなのだと思う。働き方に対する意識を変えるというのが本筋なのだろう。一部の優良企業に限った話では無いのである。

しかしメディアや世間での扱いはあまりにも冷たく冷めていたようにも思える。自分たちとは縁のない世界といった様子であった。もっとうまいやり方が求められていたように思う。

ベーシックインカムと就業意欲

働いた時間や収入に応じてベーシックインカムの支給額を増減させると良いかもしれない。沢山働けば支給額も増える方向ならゲーム性もあって面白い。就業意欲にも繋がる。

BIの時代では、生きるために仕事をするのではなく、贅沢をするために仕事を頑張ったり、やりたいことを実現するために仕事をするという価値観が一般化するかもしれない。これらは富裕層や中間層にとっては当たり前の価値観だが、貧困層やワーキングプアにとっては縁のない価値観となってしまっている。BIは機会や動機の平等を実現するためのシステムとして機能するようになるだろう。

BIによって安心や余裕が得られれば、結婚して子どもが産める社会の実現や、地方移住、農業の活性化も果たせるようになるかもしれない。少し楽観的すぎるかもしれないが。しかし政府の先の見えないムダな政策や既存の社会保障、目先の景気対策やバラマキ政策なんかよりはずっと価値のあるシステムだとも思う。これほど分かりやすく単純なシステムで人々の意識を大きく変えることができるわけだから、検討や議論を行う価値は十分にあるだろう。

労働環境と社会保障

今の日本に必要なのは終身雇用制度ではなく、強力なセーフティーネットだと思う。会社を辞めても次があるという保証や安心がないと、労働者の立場は弱いままになってしまう。会社の言いなりになってしまうし、長時間労働やサービス残業も無くならない。雇用者の立場が強すぎるのが、今の日本の悪いところだと思う。

この過激な競争社会で企業側の意識を変えることは不可能だと思う。セーフティーネットを強化し、労働者にとってのしっかりとした地盤を強化していくことのほうが得策ではないか。労働組合がないような中小零細企業の社員ならなおさらそういった社会保障が求められる。

超高齢社会と投票制度

超高齢社会が進むと、老人重視の政策や政治ばかりが蔓延するようになる。若者の支持層は相手にされなくなり、将来を見据えた政治も行われなくなってしまうだろう。だからいずれ、投票制度には同じ一票でも年齢層や投票率に応じた重み付けの仕組みが必要になるかもしれない。

シルバー民主主義がまかり通ってしまうと、現行の不平等な年金制度に対する議論もまともに行えなくなってしまう。

ニート・引きこもりへの優遇

引きこもり・ニートの就業に対して報奨金を与えるようにすれば、働き始めようと考える人々が出てくると思う。報奨金が欲しいという建前と大義名分ができるので、立ち上がりやすくはなるだろう。企業への助成金よりもよほど効果的なのでは。人手不足の時代なのだから、企業側ばかりを優遇せず、当事者の恩恵を増やすことを考えてみてはどうか。

余裕のない社会と種の衰退

恋愛や結婚に興味がないという若者が増えたが、あれはある種の「あきらめ」ではないか。合理的な理由をつけて自分たちの選択を正当化しているようにも見える。いずれ歳を取った後に後悔するのではないか。別に若者を責めるつもりはないのだが、むしろ国や社会も若者もこの現実から目を背けずに向き合わなければならないと思う。

見捨てられた世代

よくアラフォー世代は「割を食う世代」なんて言われてきたけれど、現状を見ていると「見捨てられた世代」という感じがする。企業からは見放され、今では国からも見捨てられている世代なのだ。高齢者と若者は大事にするがその中間の世代には見向きもしない。この世代が高齢化したときに日本がどう転ぶかは容易に想像できるだろう。それでも我々はこの問題から目を背け続けている。

野党の存在意義

政権を批判したり足を引っ張ったりするのが野党の仕事という印象を受ける。しかしそれはマスコミやネット上の世論がやってることと何ら変わらない気もする。野党は今、自分たちの存在意義を見直すべき時代に来ていると思う。

野党は与党のやり方を正し、良い方向に導くための存在だと思うのだが、現代の野党はただ与党を政権から引きずり降ろすことしか考えていないようにしか見えない。野党の活動は単なるパフォーマンスに過ぎないのではないか。人々の憎悪を掻き立てることになんの価値があるのか。貴重な税金と人々の労力は国のプラスに働く活動に使ってもらいたいものだ。

元号改正とデウス・エクス・マキナ

元号改元とデウス・エクス・マキナ|神の存在について考える

宗教と幸福

幸福な社会が宗教を求める

MeToo運動と対立

MeToo運動は元々、個人が声を上げ、社会がそれを真摯に受け止め、議論を始めるきっかけを生み出すための存在だったように思うのだけど、いつからか政治利用されるだけの存在になってしまったように思う。そしてそれに反発する人も出てきたりして、議論や改善ではなく対立ばかりが生み出されてしまっているように思える。

時にMeToo運動は知りたくもなかった事実まで映し出す。もちろん被害者の気持ちは第一である。しかしその事実を知った者たちも同じように傷つくことも忘れてはならない。MeTooは加害者も被害者も周りの人間もみな不幸にする。MeTooは相当な覚悟と勇気のいる行為であり軽々しくできるものではないのである。MeToo運動を安易な気持ちで悪用した者たちはその身を恥じるべきだ。

行き過ぎた正義感と権力の乱用

何でもかんでも男女差別や女性蔑視、人権軽視と言って過剰なほどに抗議する活動家や市民団体がいるけれど、いずれそういった人たちによって表現の自由までもが侵されるようになったり、銅像が撤去されたり、イベントが廃止されたり、歴史的絵画までもが排除の対象となるディストピアのような社会が生み出されるのではないかと心配になる。

行き過ぎた正義感が辿り着く先は盲目的な悪ではないか。ナチス・ドイツの時代を彷彿とさせるものがある。本質を見失ってはいないだろうか。正義や権利は支配欲を満たしたり、優越感に浸るための道具ではない。人を侮蔑するための道具でもないし、妬みや嫉妬心を発散するための道具でもない。

受け入れられないものを受け入れた先に見えるものもまた正義である。適度な主張や活動も大事だが、何よりも大切なのはバランスだと思う。一方的な主義主張を押し通すだけでは、社会的合意は得られないばかりか、対立を生み出すだけである。そしてその先にあるのは、終わりのない非生産的な争いと文化の衰退ではないか。

終わらない運動と戦争

肉屋を襲撃するヴィーガンのニュースを知った。自分たちの信じる正義のためなら、人を平気で傷つけるような人たちがいる。いずれ美術館を襲撃するフェミニストも出てくるかもしれない。ヴィーガニズム、フェミニズム、ポリティカル・コレクトネス、LGBT、MeTooの問題を見ていると、人間は常に対立と闘争を求める生き物なのだなと実感する。結局、戦争が終わっても平和な世界なんてやってこないのだ。また新しい争いに向かっていくだけだ。意味もわからず戦争は良くないなんてのんきに言ってる場合ではないのである。人類は根本的な問題を抱えている。そこを解決しない限り戦争は永遠に無くならないだろう。宗教も法律もまた我々を救ってはくれない。我々には理性が求められている。

正義という名の宗教

今日の「正義」は現代における「宗教」の新たな形なのだと思う。皆自分たちの信じたい正義を信じている。我々は宗教によって引き起こされた愚かな迫害や争いを、ただ形を変えて繰り返しているに過ぎない。

自分たちの正義が否定されることは、自分たちの信じてきたものの価値観や生き方を否定されることと同義なのだろう。人々は皆自分たちを神と勘違いし、世の中を自分の思い通りにしようとしている。自分たちにとって都合の悪い正義は「悪」とみなす。つまるところ、皆自分勝手なのである。

オタク批判と嫌悪の矛先

オタクコンテンツやオタクアニメを熱心に批判してる人たちは、同じ労力をジブリ・アニメやディズニー・アニメーション、手塚治虫作品に向けてみるといい。それができないのなら単なる弱い者イジメに過ぎないということだ。ただ叩きやすいから叩いているだけに過ぎない。そしてその嫌悪はオタクアニメではなくそれを見ているオタクに向けられていることにも気づくべきだ。

萌え絵に嫌悪を示す人たちは、萌え絵に対して嫌悪感を抱いているのではなく、それを見ているオタクに嫌悪感を抱いている。オタク達と同じようにそれらを求めている人間であると思われたくないと感じていたり、あるいは本当は好きで気になるがそれを認めたくないと反発しているような人もいる。マイノリティで劣等なオタクがまるで市民権を得たかのように振る舞い、我が物顔で自分たちの社会領域になだれ込んでくる様が気に食わず我慢ならないと感じている。

物事を批判したり差別や人権尊重を主張する人たちは、同じように他者に偏見を持ち差別心を向けて何かを抑圧してしまっていることにも目を向けるべきだ。何かに嫌悪を示すということは、何かを否定し傷つけるということでもある。正義は常に盲目的だ。この文章もまた、そのような正義感に囚われた者の抑圧に過ぎない。

ことさらに悪を見つけ正義になろうとするものは決してヒーローとは言えない。欲望と目標を持って努力する悪役のほうがよほど人間的なのではないか。

大正ロマンへの反発と韓国人の劣等感

大正ロマンに反発する韓国人の意識の根底には文化への嫉妬が少なからず存在しているように思う。大正時代を意識した美しい衣装や優れたデザインが世界に認知されて認められることに耐えられないのだろう。だから旭日旗と同じように難癖をつけて抑圧しようとするのだ。着物を着た外国人に対して文化の盗用を指摘する韓国人の行動原理と重なるものがある。表現や文化を封殺したいという動機が透けて見えてしまう。

現代の韓国国民は統治時代を抑圧の時代と認知しており、その歴史の傍らで文化の発展を遂げていった日本に対して強い反感と劣等感を抱いているのかもしれない。そのような民族意識が豊かな大正文化へ嫉妬と反発の感情を掻き立てているのではないか。

社会学の中立性と自己顕示欲

社会学の胡散臭さは既存の社会学者たちの影響によるところが大きいのではないか。一部の感情的で声が大きく自己顕示欲の高いリベラル的な人ばかりが目立ってしまっているからなのか、発言の中立性が感じられないし、社会学の信用にも傷をつけていると思う。自己の主張をそれらしい理屈と理論武装で固めて大衆に押し付けるだけに過ぎない。そういうものは肩書を捨てて個人の趣味の範囲内でひっそりと行うのが筋というものだろう。社会学者をありがたがってもてはやす世間の風潮にも違和感を覚える。

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小川論文と対話の重要性

新潮45問題で話題の小川論文を読んでみたのだが、これには文脈や意図を都合良く解釈する者たちへの皮肉が込められてるようにも感じた。さらにそれが体現された点も実に滑稽だ。このレトリックにはまった人たちは、杉田論文を盲目的に糾弾していた人たちとなんら変わらないのではないか。

小川氏のパフォーマンスが過ぎるやり方には賛否両論があるが、それに対して揚げ足を取って必要以上に攻め立てることにも問題があるのではないかと感じた。歯には牙で立ち向かうのではなく、冷静な対話でもって両者の主張とその本質と向き合うことも必要なのではないか。我々には言い争いや対立ではなく対話が求められているように思うのだ。

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