ツイッターと2ちゃんねる|今と昔のネットの何が変わったのか

ネットの誹謗中傷は「間接的」から「直接的」の時代に

今のネットユーザーは、みんな相手を否定したり説得したりすることに必死だけど、昔はもっと冷笑的な態度で個人的な感想を呟く人たちが多かったように思う。

今のネット昔のネット
必死すぎて見苦しいめっちゃ早口で言ってそう
頭おかしい何言ってんだこいつ
病院に行ったほうがいいネットは初めてか? 力抜けよ
統合失調症特有の妄想ですねエスパーかよ(※エスパー = 人の心を読む超能力者)

この十数年間で、直接的に非難する人たちと、間接的に非難する人たちの割合が綺麗に反転してしまったように感じられる。

今のネット昔のネット
いい加減にしろまたお前か
やめろ・ふざけるな必死だな
必死すぎ・ダサい・ざまあみろ涙拭けよ
お前は嘘つきだ釣り乙(※釣り = 人を誘って騙すこと ※乙 = お疲れ)
お前の妄想だろ・病院に行けという夢を見たんだ

今の時代は、直接的な言葉で「誹謗中傷」や「人格攻撃」を行うことが一般的だけど、昔はもっと間接的な表現で相手を茶化したりイジったりする「煽り」の文化が成り立っていたように思うのだ。

ユーモアで相手を遠回しに批判する奇特な文化があったように思う。

みんな達観していて、あまり必死にならず、一歩退いて、さめた目で物事を見ていた。

これは匿名文化の影響も大きいように思う。匿名の時代は相手に対して無関心でいられた時代だ。逆に現代では、名無しの文化が廃れたことによって、人々は名前を持った個人の存在を意識するようになり、相手への憎悪や執着がこれまで以上に強くなってしまった。相手への憎しみの感情が、直接的な攻撃を強める要因になっているのではないかとも考えられそうだ。思えば、「2ちゃんねる」時代に叩かれていた人たちの多くは嫌われ者であり、その存在は往々にして「コテハン(固定のハンドルネーム)」を用いる者たちであった。

目次

コミュニティは「繁栄」から「対立」の時代へ

あの頃のネットは、明確なテーマを持ったコミュニティがほとんどだったから、コミュニティ内での話の脱線や余計な言い争いはむしろ周りから煙たがられていたほどだ。

反論されると面倒だから、わざと遠回しに非難したり、相手を過度に刺激しないように、個人的な感想を呟く体で揶揄していたような気もする。長文は必死すぎてダサいという風潮もあった。適当にあしらうことが美徳のような時代だった。皆「構ったら負け」「無視が一番」の原則をわきまえていたのだ。

それはひとえに「共同体を円滑に維持していかなければならない」という義務感や責任感、コミュニティの一員としての自覚があったからこその振る舞いだったように思う。また集団に属していることの安心や優位感のようなものを感じていたようにも思う。それらの意識が「煽り」や「冷笑」という、ある種のイジメや差別・同調圧力のような構造を生み出してきたのではないか。

一方で、現代のSNSは自由度が高く、広がりの大きな世界であるが故に、以前のような秩序が生まれにくいシステムになっており、とりわけ「ツイッター」は、守るべき共同体やテーマが上手く定まらないため、ブレやすく荒れやすい。現代のSNS社会にあるのは、コミュニティの繁栄ではなく、イデオロギーの対立だけである。個別の意志の集合によって形づくられた集団の意志は、目的を見失った理性のない怪物となって、この社会を壊し始めている。

真に愚劣で脆弱な世界である。もっともサービス事業者にとっては、それが実に都合が良いのである。というのも、混乱と争いほど金になるものはないからだ。大衆はこの人々の憎悪を煽る対立マーケティングの構造に気づくことなく、今もあのフェイクにまみれたジャンクフードのような世界に、限りある人生の貴重な時間を注ぎ込んでいる。我々ホモ・サピエンスは想像力の織りなす虚構によって繁栄を遂げ、虚構によって滅ぶのであろう。

ネットは「全体」から「集団」の時代へ

昔のような「匿名」や「全体」の時代は既に終わり、今は「個人」や「集団」の時代であるため、あの頃のような世界観はもう取り戻せないような気もする。

現代のSNSのシステムは、タイムライン上から独立した個別の空間が主体となっており、情報は「全体」ではなく「集団」に流れるようにできている。全体による社会の目は行き届かず、それが集団の先鋭化を招き、ひいては先鋭化した集団同士の対立にまで発展している。昨今のネット社会の混乱と無秩序は、このシステムによって引き起こされていると言っても過言ではないように思う。

「2ちゃんねるはインターネット史上最低の発明」であると、以前うちの猫が言っていたような気もするが、私に言わせれば、「ツイッターは人類史上最悪の発明」であり、それゆえ、ツイッターは早急に滅ぼさなければならないと考える次第である。

なお、現代は群れの力が強い時代でもあるため、少数派を揶揄してハブるようなやり方は通用しなくなってしまったように思う。少数派の暴走を水際で抑え込むことができなくなり、少数派の憎悪が表面化しやすくなってしまった。あの頃の多数派は、主観を述べているようでいて、実は客観的な社会の規範を突きつけているという、至極真っ当なことをしていただけなのだが、しかしそれは多数派と少数派の上下関係が定まっていたからこそ上手く行っていたに過ぎなかった。少数派の結束が強く、情報の拡散と伝播も急速な現代では、もはやその自浄作用は機能しない。この社会にくすぶるガン細胞は、同胞を取り込み、今もなお増殖を続けている。

現代は頭のおかしいヤバい人たちが群れをなして意気揚々と闊歩している恐ろしい時代だと感じる。弱者の皮を被った少数派も増えた。だからこそ、人々は少数派の台頭に危機感を覚え、直接的な非難を強めるようになったのではないかとも考えられる。あの頃の余裕はもう感じられない。

現代は正義感が飽和する時代だ。正義感が対立する両者に対して平等に満たされた状態にある。偏った少数派の思想も、それを持った者たちが大勢で集まって結束すれば、それもまた一つの正義となって社会に浸透し、その存在が保証される。正義感は、自分の言動を肯定し支えてくれる存在が周りにいるという安心とその一体感によって増長するものだ。この感覚が対立する両者に対して平等に与えられているのが現代のネット社会なのだ。集団のもたらす安心感や一体感は、人々を罪悪感や責任から解放し、そのタガの外れた状況が正義の暴走を引き起こす。人々の繋がりや結束が必要以上に強まってしまったことが、昨今の社会の対立と混乱を招いている。

世界は「強者」から「弱者」の時代に

現代は少数派が「弱者という名の強者」となって既存の社会を打ち壊す時代だと感じる。まさに革命の時代だ。

近年では「政治的正しさ」や「弱者の人権」「黒人の差別意識」を故意に利用して、不快な物事を排斥しようとする者たちや、他人の自由を奪おうとする者たちも増えている。

最近では、衛生マスク着用の義務化に反対するために神の存在を盾にしようとする罰当たりなアメリカ市民も登場した。

リベラルや左翼が毛嫌いする「同調圧力」や「恥の文化」には、本来、このような偏った人たちの台頭を防ぐ役割があったのではないかと考えざるを得ない。長らく同調圧力は絶対悪として語られてきたが、私はそれに大きな違和感を覚えていた。むしろ同調圧力は共同体の生み出した必然的な必要悪であり、社会の永続的な維持と種の存続のための重要なメカニズムなのではないのかと。この21世紀初頭の激動の時代を実際に生きてみて、それが確信に変わったように思う。

もっとも、集団の力が強まってしまった近代にあっては、それを以ってしても為す術はないのであるが。それどころか、近年では暴走した左翼側の正義が同調圧力を強いるようにまでなった。アメリカで問題になっている黒人運動とアンティファの行き過ぎた暴走がその良い例だ。政治家もハリウッドスターも、みな黒人の人権や「Black Lives Matter」に萎縮してダンマリを決め込んでいる。暴走する正義の人たちから敵視されることを恐れて、誰も声を上げられなくなってしまったのだ。肥大化した正義には誰も刃向かえない。この凶暴化した正義は、もはやテロリズムやナチズムと何ら変わらないように思うのだが。

インターネットは人類には早すぎた悪魔の発明

現代では、憎悪を発散させるための批判はもとより、相手を屈服させるための批判が強くなっているように思う。人々は相手の過ちを正し、改心させようと必死になっているが、それは今となっては無駄な足搔きでしかないように思う。

現実社会の常識はもはや通用しなくなり、ネット社会独自の通念や規範が築かれつつある。そしてそれは、いずれ現実社会を飲み込み、この世の主流になると信じられているのであろう。だからこそ、人々はその新たな規範の構築を競い合っているのだ。少数派は社会の破壊と創生を求め、多数派はそれを必死に食い止めようとしている。決着がつくことのない不毛な争いであると分かっているはずなのに、彼らはそれをやめられないのだ。

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