自由と人権は「自分勝手に振る舞う」ための道具でしかない

自由と人権は、結局のところ「自分勝手に振る舞うための道具」に過ぎないのだと思う。

人権とは、身勝手な人々が多数派を占める社会の中で、いかに自己の利益を守っていくかを追求するための思想なのである。

そして彼らの求める「平等」もまた、他人に抜け駆けをさせないための足かせでしかない。

仏教的な価値観や同調を重んじる日本の村社会を生きた私は、長らくこの西洋的な「自由と人権」の本質を理解することができなかった。

しかし、アメリカの銃社会や独立する富裕層、人権先進国に生きるヨーロッパ人の差別的な振る舞いとモラルの崩壊を見るにつけ、その精神がいかに脆弱で愚劣なものであるかを、しみじみと感じさせられるのである。

彼らの生きる社会は、悪循環に陥った疑心暗鬼の世界なのだ。

彼らの世界では、誰かが得をすると、他の誰かが損をするようにできている。
誰かが自由を得ると、他の誰かが不利益を被る。
そしてその不利益を被った人々が、今度は別の新たな自由と権利を主張するようになる。
そうやってまた別の人々が不利益を被るのである。

この終わりのない競争が無限に繰り返されている。
不毛なポジション争いであり、この折り重なるマウント合戦に際限はない。
彼らは安心というパイの奪い合いをしているのだ。

彼らの民族は、いつ他国の民族から侵略を受けるかもわからない陸続きの世界を生きてきた。絶えず脅威にさらされていく中で、彼らは常に争いを正当化してきた。「やられる前にやる」それが彼らの行き着いた思想なのではないか。

自由であるということは、自分の身は自分で守らなければならないということでもある。そしてそのために求められたのが人権なのではないか。他人の自由な振る舞いから身を守るためには、法と人権を用いて対抗するしかない。また人権や平等という概念は、人々の自由な振る舞いによって生じた格差や不公平を是正するための存在でもある。彼らの求める平等は、強者を引きずり降ろすための論理であり、他人に抜け駆けをさせないための足かせに過ぎない。

彼らは今後も自由を求めることの代償を払い続けなければならない。自由を求めれば求めるほどに、彼らを縛り付ける人権や法律という名の鎖はその重みを増していく。彼らは自分たちの高い人権意識を誇り、日本の活動家もまたそれを称賛するが、しかしそれは全身に巻き付けられた鎖の量とその頑丈さを誇るようなものではないのだろうか。多くの問題を個人の話し合いや集団の中で解決できなかったために、仕方なく厳格なルールを設けたというだけのことではないのか。

彼らは性悪説に支配された殺伐とした社会の中で、いかにして勝ち抜いていくかを追求している。
野心的でハングリーなフロンティア精神ではあるが、それは川の流れに逆らうような生き方だ。

秩序の崩壊を事前に回避するために、人々に自制を求め、同調を強いる日本の文化とは対称的である。
川の流れに身を任せることで平穏を保とうとする仏教的な価値観とは相反するものだ。

欧米由来の人権運動が日本の社会に根付かないのも当然だろう。性善説や道徳、他者への配慮を重んじる日本の文化に、他人よりも個人の利益を重んじる欧米型の利己的な思想が噛み合うはずもないのである。

それを日本の社会に無理やりねじ込もうとするから綻びが生じる。

周囲を海に囲まれた安全な島国を生きた日本の民族に、異なる風土で育まれた異国の価値観や思想が合致するとは限らない。

日本民族は内側の普遍的な自由(フリーダム)を求め守ろうとするが、西洋民族は外側に自由(リバティ)を求め勝ち取ろうとする。そこに大きなギャップがある。

西洋の価値観を直輸入しても、それを日本向けに改良できなければ、不都合が生じ、既存の社会の対立と混乱を招くだけである。そしてそれはいずれ文化の崩壊に繋がる。

日本には日本のやり方が必要だ。闇雲に他国のやり方を取り入れようとするのではなく、日本の文化とその実情に即したやり方を模索していくべきだと思う。

急進的で速やかな変革よりも、漸進的で緩やかな改善が必要である。

自己を大切にする思想と、他者を思いやる思想、そのどちらに可能性があるだろうか。

良い部分は伸ばし、足りない部分は補う形で、バランスの良い正義を模索していきたいものである。

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