現代のSNSネット社会には信用スコアの導入とユーザー属性の開示義務が必要

思想を可視化するイデオロギーメーターの必要性

現代のSNS社会には、ユーザーの属性を可視化する仕組みが求められているように思う。

ネット上の書き込みが、どのような主義主張を持ったユーザーによって行われたものなのかを明確に示せるようにする必要がある。

大げさに言えば、要するにプラットフォーマーによる「ネトウヨ認定」や「ネトフェミ認定」「嘘松認定」が必要だという話だ。

ネット上の発言者が、左寄りの人間か右寄りの人間かどうかを、交流関係や過去の言動を元に算定し、ユーザーに開示できるようにする。これによって発言の信憑性を明らかにできる。

受け手は、発言する相手の立ち位置を理解した上で、情報を受取ることができる。書き込みの意図や目的を推測することができる。信頼のできる中立的な発言を求めることが可能になる。

情報の誤った受け取りを減らすことができる。無駄な衝突や言い争いも減らすことができるだろう。過激な思想を持った相手の意見に触れたくないのであれば、不要な属性をフィルタリングすればいい。スラム街を避けて通るようなものである。

目次

プロ市民化するネットユーザー

ネットの世界は欺瞞に満ちている。一般人を装った過激な人々の政治的な発言で溢れ、弱者を装った者たちの作為的な発言で溢れている。過激な思想を持った一部の人々の発言が、あたかも世の中の多く人々の意見であるかのように受け止められてしまっている。メディアもまた、一部の人々の意見をさも全体の意見であるかのように誇張して報道してしまっている。それらはフェアではないと思う。

偏った過激な思想を持った者同士の言い争いが、平均的なネットユーザー同士の議論であるかのように報道され、それを見た他の人々の感情が不必要に煽られ、不毛な論争に繋がるケースもある。

政治家に対する批判的な発言のほとんどが、実は左翼思想や反日思想を持った偏ったユーザーによるものであった、といったようなこともよく起こる。一部の声の大きな人々の意見がメガホンのように拡声され、大勢の人々の意見であるかのように聞こえてしまっているのである。

着物を着た外国人に文化の盗用を指摘し批判した人々の多くが、実は日本人ではなく、アジア系アメリカ人や韓国人だったといったケースもあった。

日本の萌えキャラが描かれたポスターを問題視してメディアに取り上げられた欧米人が、実は一般的な外国人ではなく、フェミニズム問題を熱心に扱うジャーナリストだったことはあまり知られていない。

人々の憎悪を煽るような作り話が広まり、それを真に受けてしまう人々を何度も見てきた。その投稿者は普段から物事を大げさに誇張した創作実話を投稿している明らかな嘘松ユーザーであった。

しかしメディアは彼らの発言をあたかも大多数の一般的な市民の意見であるかのように扱ってしまう。誰がどのような意図で発言したものなのかを精査せず明らかにしようともしない。そしてその報道を見た人々は一方的に植え付けられた認識のまま、過剰で偏った問題意識を持つようになる。情報の少なさは、情報が誤って解釈されるリスクを増大させるが、マスメディアはその不都合と向き合おうとはしない。そのほうが儲かるからだ。報道しない自由を行使し、都合の良い情報だけを小出しして、人々を煽り欺くのである。

ネット時代は、いとも簡単に世論を誘導できてしまう時代でもある。自作自演も容易である。自由なネットの普及によって民主主義の脆弱性が露わとなった。

弱者のふりをした強者が得をする時代

ネットの世界はあまりにも匿名的で自由すぎる。顔の見えない相手を信用し、無条件に尊重しようとする今のネット社会というのは、よく考えてみれば異常である。相手が本当に弱者かどうかも分からないのに、生身の人間かも分からないのに、どうして彼らを無条件に信用し、理不尽なクレームや要求を受け入れることができるのだろう。なぜ人々は理性よりも感情が優先されてしまう昨今の有り様に何の疑問も持たないのだろう。これは民主主義と言えるのだろうか。これなら社会のあり方をサイコロを振って出た目で決めたほうがまだましではないか

このやりたい放題の無法地帯と化したネット社会には、大きな修正が求められているように思う。インターネット実名制の導入はあまり現実的ではないが、少なくともユーザー属性の可視化くらいは求められて然るべきだと思う。

年代や性別、国籍、活動期間といった基本的な情報は必須だ。嗜好や価値観、信念といった心理的な傾向も求められる。精神疾患の有無はさすがに難しいだろうか。保守的傾向やリベラル的傾向といった情報も求められる。学歴や学位の開示を可能にし、権威性を示せるようにするのも良い。自己開示の基準を満たしたユーザーには発言力を与えるなどして、システム的に優遇すると良い。その分、匿名ユーザーの発言力は相対的に弱まることになる。申告した属性と実際の振る舞いに矛盾が生じる場合にはペナルティを科す。

要するに「信用スコア」のような仕組みをSNS社会に導入するというわけだ。

サービス事業者に求められる義務と責任

トレンド・タイムライン上のアクティブユーザーの思想傾向を統計的に示すことも必要である。政権の不手際を猛烈に批判している人々の多くが左翼思想に傾倒していることが往々にしてある。特定アジアを批判する者たちの多くが保守的傾向の強い人々であることも、よくあるパターンである。それらを可視化するのである。偏った人々をフィルタリングできるようにし、一般的な人々の声を抽出できるようにする。

プラットフォーマーには、人々の属性や傾向を元にした情報の統制が求められる。

判断力の未熟な未成年者が行った攻撃的な発言には露出制限を課し、人々の目に触れる機会が少なくなるよう機械的に制御する。攻撃的な言動を事前に踏み止まらせる仕組みも必要である。

過激なインフルエンサーや情報商材屋による扇動性の高い発言は、未成年者や情報弱者のタイムライン上に表示しないようにする。

登録間もない新規アカウントや捨て垢による政治性の強い発言は工作活動が疑われるため露出制限を設ける。「いいね」や「リツイート」の効力を弱めることも有効である。

「いいね」機能を廃止し、投票制の評価システムを取り入れる必要もある。「いいね」の一択ではなく「良い」と「悪い」の二択にする。「いいね」の一択では、受け手の側で誤った承認と確証が得られてしまい、偏った認知を強化してしまう恐れがある。

またユーザー側の意思で情報のフィルタリングが行える仕組みも必要だ。特定の偏った考えを持ったユーザーを一律にブロックできるようにする。そうすれば、差別的な発言を見なくても済むようになる。女性は、性的なイラストを投稿する傾向にあるユーザーの投稿に触れなくても済むようになる。

より排他的なリコメンド機能が求められている。

しかし、当のサービス事業者は自分たちの責任と義務に対して無関心である。人々が言い争ってくれていたほうが儲かるからだ。人々がプラットフォームから目が離せなくなるように、わざと劣悪なシステムを構築している。狭い水槽に人々を閉じ込め、その共食いする群衆を眺めて楽しんでいるのだ。Twitterの返信非表示機能も、結局は投稿者にとっての都合の悪い情報を隠すための仕組みに過ぎず、恣意的な情報の拡散を助長するものでしかない。過激な活動家や情報商材屋に悪用される恐れもある。

要するに、中毒性の高いカフェインや糖質、カロリーで客を依存させたアメリカのファーストフード業界と同じようなことを、現代のネット業界も行っているのである。全ては金儲けのためのマーケティングに過ぎないのだ。プラットフォーマーは人々の憎悪を利用しているのである。人々を憎悪中毒にして暴利を貪っている。

だから上記のような仕組みを自発的に取り入れてくれるサービス事業者が、この先も生まれることはないだろう。事業者たちはFacebookの失敗とTwitterの成功から多くを学び過ぎたのだ。

だから法律で義務化するか、サードパーティ製の分析ツールや外部のクライアントアプリを個人で利用するしかないと思う。

ネットの住人は繋がり過ぎている

情報のシャワーを無条件に浴びせられてしまう現代のネット社会は明らかに異常である。現実世界の人々がスラム街を避けて通るのと同じように、ネット世界の住人にも不必要な情報を避けて生きる道理がある。しかし現代のネットにはそのための仕組が備わっていないのである。だから直ぐにケンカが起こり、不毛な対立に発展してしまう。

前提となる知識や認識、場の空気を共有していない相手とまともな議論ができるはずがないのである。議論をする気もないような人々がズケズケと入り込んで問題を拗らせている。まるで不良と教師が言い争いをしているかのようだ。授業が進むことはなく、迷惑するのは周りの真面目な生徒たちだ。ネットの普及によって様々な人々が過剰に繋がりすぎたことの弊害である。

嫌なら見なければいいのだ。逆に自分の発言を多くの人に届けたいなら、差別的な発言を慎み、それ相応の振る舞いをすればいい。過激な言動や作り話で人々を煽るのではなく、理性的な態度で訴えかければいい。過激な扇動や作り話ばかりが受け入れられ、冷静な対話がその影に埋もれてしまう昨今のネット社会は、あまりにも異常で危険なものである。

ネットユーザーには現実世界と同等の責任と自覚が求められる。平気で他人を傷つけてしまわないように、自分という存在を常に意識させなければならない。自身の立場や振る舞いを意識してもらわなければならない。現代の匿名的なインターネット社会にはそれが欠けている。ネットとリアルは同等に扱われなければならない。我々は30年間という長い年月をかけて、ようやくそれを学んだのだ。

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