女性の解放と社会進出を求めたフェミニズム運動は、女性を幸福にし、この社会を良くしてくれたのだろうか。
現状を見るに、社会はむしろ彼らによって悪い方向へと変えられてしまったように思えてならない。
一部の声の大きな女性たちが、現実社会の実態にそぐわない自由と理想を早急に追い求めた結果、不安定な社会が形成され、大多数の女性は以前よりも困難で不幸な人生を強いられるようになったのではないだろうか。
弱者女性にとって生きづらい環境を生み出し、彼女達に自己責任を押し付け切り捨てるだけの残酷な社会へと行き着いてしまっただけだったのではないか。
それは、男女の生物的特性と共同体の基本原理に目を向けず、理想ばかりを追い求めたことの結果でもある。
強者女性フェミニストによる弱者女性への抑圧|フェミニズムと男女平等の罠
「女性の社会進出」と「子供を生み育てやすい社会」の両立という矛盾
フェミニズム運動は、一部の女性たちの要求を、あたかも全ての女性の総意であるかのように主張し、強引に社会を変えてしまったのだ。それはフェミニストにとっての理想の女性像を、多くの女性たちに押し付ける行為でしかなかった。多様性や正義を受け入れさせるだけでは飽き足らず、それを社会の半ば強制的な規範と定義してしまったのである。はたして世の中の多くの女性は、このような行き過ぎた画一的な社会や女性像を求めていたのだろうか。
現代のフェミニズムは、まるで「全ての女性は社会に出てバリバリ働くべき」「管理職になるべき」「男性に媚びてはならない」「胸を強調してはならない」といって、自分たちに都合の良い理想ばかりを押し付けているように思えてならない。現代の女性たちは、まるで主体的に生きているかのように見えるが、実際には社会的な規範に従順に沿っており、女らしさを捨てて男性社会に迎合していることに変わりはないのである。女性運動はその同調圧力によって女性の選択肢を狭め、多様性を奪ってきただけなのではないか。正義や平等・解放・多様性を謳いながらも、結局は女性を束縛し、女性たちを特定の選択肢へと誘導してきただけだったのではないか。
近年では女性活躍社会の意に反して、女性の専業主婦志向も高まり、また「新・専業主婦志向」なる分業志向も台頭しつつある。
女性活躍社会に疲れた女性たちが、専業主婦にこそ女性の幸せがあるという真理に気づき、家庭回帰を求めるようになったのだ。つまるところこれは、男性の支配や家庭・性役割の束縛からの解放を求めたフェミニズム運動は失敗であったということの一つの表れではないだろうか。
しかし女性の権利と自由(それに付随する自己責任)を求めたフェミニストたちは、この過ちを決して認めることはなく、むしろ女性の選択肢が増えたと開き直ることだろう。
しかしその選択肢とはすなわち、経済力のある高倍率男性を射止め専業主婦となって安泰と幸せを手に入れる選択と、男性に依存せず自らの意志で人生を切り開くキャリア女性として自立し婚期と妊娠の機会を逃し続ける選択、そして持たぬ者は社会に適応できないまま自己責任を押し付けられ貧困化するという選択である。
果たして現代の女性は本当に幸せを勝ち取れたのだろうか。そもそもフェミニスト達が求めていたのは人々の幸福ではなく、怒りや憎悪、不平や不満を社会にぶつけることだけだったのではないだろうか。彼女たちは正義感という一時の快楽に溺れ、長期的な幸福を失ったのではないか。
彼女たちは絶対的な平等を求めたが、その結果として、相対的な平等や公平な幸せを失うばかりか、本来自分たちが得ていた多大な恩恵をも失ってしまったのである。むしろ、その相対的な幸福や恩恵を得られなかった惨めな女性たちが、その穴を埋めるようにして絶対的な平等を求め始めたのではないかとさえ言える。
結局のところ、女性解放運動が勝ち取ったのは、出産もできないまま一生共働きを続けなければならない茨の道だった。過去の女性たちが自ら招いた不幸で残酷な自由、それを現代の女性に対して「“女の生きる道”」と言って押し付けて良いものか。
世の女性たちは、社会進出こそが女性の生きる意義であると叩き込まれ、若さという女の武器を持ち腐らせたまま、がむしゃらに仕事に打ち込み、出世を追い求め、いつしか恋愛のタイムリミットを迎えて若さと美貌を失い、チャンスを逃して独身のまま年老いてゆく。そのような生き方を強いたのは一体どこの誰なのだ。自分たちの理想を押し付け、女性たちの幸福を奪ったのは、どの人たちなのだ。「あなたのためだから」といって求めてもいない選択肢を押し付け、本当に必要だった選択肢と多様性を奪い去っていったのはどこのだれなのだ。
あまつさえ近年では「育児休暇はずるい」「専業主婦は怠け者で恥ずかしいもの」といった風潮も築かれつつある。それは育児の大変さを否定するのみならず、従来的な、幸せな家庭や子供との時間、愛情、母性を追い求める「女らしい生き方」や「女性の幸せ」すらをも否定しかねない。
それはひとえに、持たざる者たちによる嫉妬心の発露であろう。また、女性を守り、奢り、養おうとする男性の行為を「女性支配」といって批判する者たちもいるが、これも結局のところ、ちやほやと守られるか弱い女性や、可能性に満ち溢れた若い女性を間接的に抑圧するための手段でしかないのかもしれない。無意識による本能的なものだ。自分たちの手にすることのできなかった幸福や願望を否定し、その不満の元である文化や環境を壊し、持てる者たちの機会と幸福を奪い去ることによって、自身の劣等感や妬みの感情から逃れようとしている。それが彼女たちにとっての安心と解放なのだ。
女らしさを謳歌する女性たちのことが気に食わないからこそ、性的消費や女性蔑視というもっともらしい理由をつけて、男女の交わる機会や環境を壊し、持てる女性の幸福を剥奪しようとしている。
これは要するに他人の幸せやセックスアピールが気に食わないというだけの話であり、性的消費という論理はその嫉妬と反感を正当化するための建前でしかない。
また彼女たちは主婦の生きづらさを訴えているようでいて、実は主婦になれなかった自身の生きづらさを無自覚に訴えている。不幸な女性を例に上げ、「それ見たことか」といって自分の選択が正しかったことの確証を得ようとしているのである。また女性性の恩恵に預かれなかったからこそ、女性性が求められる社会を否定するのである。「自分のものにならないのなら、誰のものにもしたくない」というわけである。
加えて彼女たちは、女性性や母性を求める男性を敵視し、男性のそれを女性への抑圧と定義することによって、女性性を持ち得ない自分を正当化したり、母性を手にすることのできない自分を肯定化しようとしている。向き合うべき現実から目を背け、思い通りにならない社会を故意に歪めることでもって、その自身の重圧から解放されようとしているのだ。あまつさえその向こう見ずな行動の結果として生じた障害すらをも社会の抑圧と嘆き、終わりのない自滅と責任転嫁を繰り返している。※5
つまり女性を抑圧しているのは女性自身なのである。まさしく「女の敵は女」であり、女性が互いの足を引っ張り合っている。お互いに妬み合い、幸福の没収をし合っているのだ。
自由と平等を求めるフェミニズムの実態は、結局のところ「皆で平等に不幸になるべき」という思想でしかなかったのだろう。皆が幸せになることを願うのではなく、幸せな者たちを引きずり下ろすことに夢中になっているのだ。つまり彼らは幸せな人々のことが憎いのである。幸せを掴むための努力を放棄し、他人の幸福と自由を抑圧し、社会を均一化することでその努めから逃れようとしている。多様性はどこへ行ったのだ。
理想主義者たちが求めた平等と多様性は人々の自由と機会を奪うことでしか実現しえないものだったのだ。彼らの失敗はその残酷な真実を私たちに突きつけている。
今さら彼らのことを責めても仕方がないし、起こってしまったことを嘆いてもどうにもならない。しかしこの過ちは決して忘れてはならないと思う。昨今のリベラル化する社会を見るに、その過ちは同じロジックのもとに今もなお繰り返され続けている。人々が自分たちの本当の気持ちと向き合わない限り、我々はいつまでも前へ進むことはできないだろう。
怒りや憎悪に根ざした思想は短期で破綻する。リベラル化はその即効性の高さゆえに短期で社会を壊してしまう。気づいたときには、人々の幸せと平穏は失われ、永遠に取り戻すことはできなくなっている。
リベラル化は緩やかな自滅への片道切符だ。その選択によって社会は大きく変わるが、良い方向に進むことはない。なぜなら、彼らの目的は嫌な社会を壊し、現状を覆すことにあり、その後のことなど何も考えていないからだ。彼らは安心や正義感といった目先の利益ばかりを見て、未来を見ていないのである。気づいた時には人々の幸福は失われ、不幸な人々はその不幸さ故に人々を傷つけ始める。終わりのない憎しみの連鎖と悪循環に陥るのだ。
なぜ人々は幾度となく破壊を求め、同じ過ちを何度も繰り返し続けるのだろう。
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羨望型ミソジニーと女性性の剥奪|女性による「女らしさ嫌悪」について
※1 この自己防衛のメカニズムは実に利己的で巧妙なものである。
彼女たちは持てる女性に嫉妬しているが、持てる女性たちに不満を表明したり批難したりすることができないでいる。劣等感や嫉妬の感情を認めることができないためだ。また嫉妬心はあくまで個人の内面的な問題であり、そこに持てる女性たちの責任や加害性は存在しない。だからこそ彼女たちには「男性の加害性」という建前が必要となったのである。
彼女たちは自身の不幸の原因を社会や環境に求め、その不満の感情を男性へと向け始めた。不公平の根拠を社会の中に求め、不幸の原因を男性の抑圧と解釈することで、自分たちの行き場のない妬みや憎悪の感情を固定化し正当化し始めた。原因のすり替えや強引な理由付けをして開き直ってしまったのだ。
またそこでは抑圧された哀れな女性を導く使命感と優越感も得られる。正義感という快楽と新たな目的が得られる。持てる者たちよりも優位に立てる。そして男性の行動を制限し彼らを萎縮させることで、持てる女性たちの機会と幸福を間接的に奪うことができる。同時に自身の劣等感を刺激する文化や環境をも排除することができるのだ。現実逃避や自己正当化、他者支配、幸福の没収、文化の収奪を無自覚に成し遂げる驚異のメカニズムである。
つまり、女性自身が「女らしさ」を嫌悪し、女性性の排除を望んでいるのである。嫉妬心や劣等感からくる羨望的ミソジニーのようなものだ。彼女たちは他人の「女らしさ」に羨望し嫌悪しているが、それは女性の立場でありながら女性嫌悪的な思考を持ってしまうという矛盾を引き起こす。彼女たちはまるでその矛盾を回避するかのように、「女らしさ」や「女の幸せ」を男性による「抑圧」や「押し付け」と定義し、女性性排除の行動を無意識に正当化している。「男性からの抑圧」という主張は、彼女たちが女性嫌悪を正当化し、目障りな「女らしさ」を排斥するための手段でもあるのだ。一番女性を憎んでいるのは女性たちなのかもしれない。
ちなみにこの嫌悪感情の転嫁のメカニズムは、男性アイドルに夢中になる女性のことを「見る目のない流されやすいバカ女」といって侮蔑することで自身の敗北感や競争心を和らげようとする男性の行動にも当てはめられるかもしれない。男性の場合は諦めを付けるためにその感情を利用をするが、女性の場合は、一歩進んで、同性を陥れるためにそれを利用してしまっている。彼女たちの不快な感情は、不快なものをこの世から無くすことでしか解消できないということなのだろう。彼女たちによる行動的な振る舞いは、種としての脅威を排除しようとする本能であるようにも思えてくる。
つまるところ、彼女たちは劣等な自分を自覚したくないのである。劣等感や嫉妬心という苦痛から逃れたいのだ。持てる者たちを通して惨めな自分を直視させられることに耐えられないのである。だからこそ、自分たちの身の回りにある目障りな女性性の排除を望んでしまう。自分よりも若く美しい女性たちのポスターや広告を批難したり、男性を虜にするキャンペーンガールを糾弾し、排斥しようとする。時に女性性を巧妙に隠蔽したボーイズラブの世界に逃避する。「男性による抑圧」や「性的消費」という主張は、目障りな女性性を排斥するための建前であり、その本音は嫉妬心や劣等感、競争心を刺激する女性性を目の前から消し去りたいだけなのである。
ちなみに、多くのフェミニストが女性搾取的な「バニラ求人」や「ホスト業界」「パパ活」文化を糾弾しないのは、その文化の恩恵にあずかる女性たちのことを、自分よりも下の人間として見ているからでもある。相手を侮蔑の対象として見ているために劣等感が生まれず、無関心となるのである。逆にレースクイーンやバーチャル・アイドル(VTuber、バーチャル風俗嬢)は自分たちよりも恵まれた持てる存在あり、また男性から多対一の視線を集める存在であるため、彼女たちの存在は自分たちの劣等感や競争心を過度に刺激する驚異となる。だから、彼らはキャンペーンガールの廃止には積極的になるが、前記のような弱者女性を対象とした性搾取的な問題には消極的になるのである。
また彼女たちは、抜け駆けをして「女らしさ」を押し出そうとする女性にズルさを感じている。しかし女性を責めるようなみっともない真似はできないため、「女らしさ」を求める男性が悪いのだと言って、その責任の所在を転嫁し、男性側の需要を抑制しようとしている。そうやって「女らしさ」を利己的に追い求める女性たちを間接的に抑圧することで、「女らしさ」を追い求める不毛な競争を収束させようとしているのだ。そうなれば持てない女性にも平等とチャンスが与えられるからだ。無理をして女性性をアピールしなくても済むようになる。焦燥感から解放される。つまり彼女たちは同性の敵を押さえ込みたいのである。競争心を煽られる環境から逃れたいのである。フェミニストの主張する「男性が女らしさを押し付けている」という論理は、遠回しに「女性は女の武器を捨てろ」という抑圧を仕掛けるためのロジックでしかないのである。
たしかに、男性が女性性を求めているのは事実だが、それは生物の本能であり、自然の摂理に基づいたものだ。女性もまた、優れた男性を獲得するために、利己的に女性性をアピールしている。フェミニスト達はその自由競争を真っ向から否定することができないため、「男性による押し付け」という定義を都合よく持ち出すことで、女性性の開放に制限を掛けようとしているのである。
これが彼女たちの求める平等なのである。つまり、持てる女性に対する女性性(富)の剥奪によって、モテ格差の是正を果たそうとしているのだ。これはちょうど、資本主義社会の中で困窮する労働者が、潜在的に、資本家を憎悪していたり、富裕層の転覆を望んでいる構図にもよく似ている。自分の正義のためとあらば他人の自由すら否定するのである。資本主義社会では争いによって持てる者たちの富と機会が失われ、社会の平等化が果たされてきた。フェミニズム運動においても同等のメカニズムが働いているとは考えられないだろうか。
家事育児に専念する家庭的な女性像を、男性による束縛や抑圧とみなす主張もまた、持てない惨めな自分たちの境遇を正当化するための建前に過ぎない。彼女たちは、自分たちが直面する非モテや独り身という惨めな境遇を正当化するために、その孤独な道を自らの意思で選んだものと思い込もうとしている。周りから惨めな女性と思われたくないがために、男性からの解放という後付けの根拠を持ち出して、自身の選択を必死に美化しようとしているのだ。男性に依存しない自立した女性こそが理想の女性像であると自分に言い聞かせ、終いにはその個人の理想を周りの女性たちに押し付け、幸福な者たちを道連れにしようとしている。そうすれば、惨めで孤独な自分という存在が社会の中で平均化され、当たり前の存在として見なされるようになるからだ。不幸な人々を増やすことでもって自身の不幸の相対値を下げようとしているのである。「結婚できなかった」のではなく「結婚しなかった」のだと言ってどんなに強がっていても、結局は、他人からどう思われるかが気になって仕方ないのである。そして自分だけが不幸であることが許せないのである。あろうことか、フェミニズム運動は、その同調圧力と幸福の剥奪を容認し、持てる女性たちの自由と多様性を奪い続けてきた。結局のところ、フェミニズム運動は「女性たちのための活動」ではなく「自分たちのための活動」でしかなかったのである。女性のためと言いながらも、結局は自分たちに都合の良いように社会を歪めているだけなのである。他人のための正義ではなく、自分のための正義なのだ。
かつては女性性が男性の支配下に置かれていた時代があったが、今ではフェミニストが女性性を支配している。一部の声の大きな女性たちが、気に食わない「女性性」を排除し、代わりに自分たちにとって都合の良い理想の「女性像」を規定し、それを女性たちに無理やり押し付けている。「抑圧される女性たち」という構図は昔から何一つ変わっていないのである。そこに女性たちの意志は存在するのだろうか。そこにあるのは「女性たちの意志」ではなく「フェミニストたちの意志」なのではないだろうか。
フェミニストたちは、フェミニズムの宗教的な側面にすがる狂信的な女性たちを利用して、その勢力と影響力を拡大してきた。売名と金儲けのために人々の憎悪を煽ってきた。さんざん信者たちをもてはやしておきながら、都合が悪くなれば「一人一派」「一部の過激な男性嫌悪者が勝手にしたこと」と言って平気で彼女たちを切り捨ててしまった。女性を搾取しているのはフェミニストたちの方ではないのだろうか。