オタク嫌悪と自己投影|萌え絵への不快感について考える

嫌悪とまではいかないが、萌え絵に対して不快感のようなものを覚えることがある。
あの複雑で曖昧とした感情は一体何なのだろう。

例えば、ラブライブというゲームに登場する女の子たちの、あの物欲しそうな目や、幼い子ども特有のぷりぷりとした肉付きが苦手だ。

世の中にあふれる萌え絵には、欲情する女性の姿を思わせるものや、無条件に男性を欲する従順な女性を思わせるものも多い。

それは、それらを求めようとするオタクの欲望とどうしてもリンクしてしまう。
それがとても不快に感じられるのだ。

萌え絵を通してオタクの欲望を見せつけられることに不快感を抱いているのだ。
秘匿されるべき欲望がむき出しの状態で表現されたそれを、見たくはないのだ。
まるで自分たちの恥部を公衆に晒されているような、そんな感覚に陥るからだ。

そのようなむき出しにされた欲望は必ず社会から拒絶されることが分かっているから、「なんて余計なことをしてくれたんだ」という非難の感情が生まれる。和を乱され、裏切られたような気持ちになる。

萌え絵によって映し出される欲望は、平穏な生活を脅かす存在でしかない。萌え絵によって生み出される世間からの拒絶や反感、迫害の波が、いずれ自分の領域にまで押し寄せてくるもしれないという恐怖を感じる。

なぜなら私もまた彼らと同じ欲望を隠し持っているからだ。

萌え絵に対する批判や偏見と戦うオタクたちは、単に好きなものを否定されたことの憤りや、相手の無理解な姿勢に抗議したいといった単純な動機だけで動いているわけではなく、いずれ自分たちの身に降り掛かってくるであろう脅威と戦っているとも考えられる。自分たちの自由が奪われていくことへの恐怖や、心の拠り所が奪われるかもしれないという不安、自分という存在が否定され排斥されることの脅威から逃れようとしている。

では逆に、萌え絵に嫌悪を示す男性にはどんな意識があるのだろうか。

あれは、欲望のままに性を求めようとするオタクたちとは同一視されたくない、という反発の感情が根底にあるように思う。というのも、私がまさにそういう人間であるから、そう感じるのだ。

私は本屋のライトノベルコーナーが苦手だ。
女性ばかりが描かれた表紙に卑猥さを感じる。

露出面積の広い服を着た女性の表紙や、若い女性ばかりが登場する奇妙なストーリーに、男性の醜い欲望を感じ取ってしまう。だから私はライトノベルコーナーに近づかない。そのような欲望を持ったオタクたちと同一視されたくないからだ。他人から情欲に溺れた人間であると思われたくないと感じているのだ。※1

だが本当は、それらが気になってしかたないのだと思う。現に私は文学小説や絵画、映画、大衆アニメという媒体を通して彼らと同じ世界を見ているからだ。だがその欲望を他人に悟られることを恐れている。だから人々の欲望が低い次元で具現化された存在には興味のないふりをする。すべての罪と責任をオタクに押し付けて彼らを批難する。彼らを批判することで、自分は彼らとは違うのだという意思を示せるからだ。自分の内なる欲望と向き合わなくて済むからだ。あくまで他人事であるかのように振る舞おうとする。女性に拒絶されない優秀な雄を演じようとしている。時に何かや誰かを批判して傷つける。だがそれらは、悶々としたピンク色の脳内を無自覚に曝け出す見苦しい行為だとも思う。欲望に忠実なオタクたちのほうがよほど潔いのではないか。※2

自分が自身の欲望を必死に抑えている一方で、オタクたちはその欲に忠実に振る舞っている。それがたまらなく我慢ならないと感じている。禁欲を放棄し、欲しいものを欲し、快楽をむさぼり、望むものをわがものにする貪欲な彼らに、妬ましさや羨ましさを感じてしまう。それは羨望の感情だ。またオタクに対する嫌悪の感情でもある。目の前のオタクは、自分がなりたくないと思っている嫌な自分だ。あるいは自分がひた隠してきた負の部分や、自覚していない裏の自分だ。だからオタクという存在を気持ち悪いと感じてしまう。なりたくない嫌な自分を、目の前のオタクを通して見てしまうからだ。オタクは自分の醜い部分を体現した存在であり、だからこそ、オタクという存在を連想させる萌え絵の存在そのものを拒絶しようとする。萌え絵への嫌悪はオタクへの嫌悪であると同時に自分への嫌悪でもあるのだ。自分という存在とその根底にあるものと向き合わない限り、我々は永遠に萌え絵の映し出す幻影に囚われ続けることになる。※3

萌え絵に対する不快感は、自らが自覚することなく包み隠してきた裏の性欲が、いたずらにくすぐられることの不快感なのかもしれない。その性欲は自身と他者の双方にとって受け入れがたいものであるため、決して顕在化することはない。内なる性欲とそれを抑えようとする理性との葛藤が、あの悶々とした不快感の正体なのだろうか。

※1 これはおそらく私の中に、「ライトノベルはイケてない根暗な学生グループが読むもの」という認識があるためだろう。オタクへの偏見は社会生活の中で徐々に築かれてきたものでもあるのだ。オタクコンテンツに対する不快感は、マイノリティに対する偏見に基づいたものであるとも言える。幼い子供が、萌え絵の描かれた絵本に対して不快感を抱かないのは、彼らの中ではまだ社会的に偏った通念や認知が形成されていないためであり、人として中立な存在であるためだ。我々は社会に適応する中で、この純粋な心を失ってしまった存在であると言える。

※2 秘めたる性欲を開花し目覚めゆくオタクたちは、まさに変態を遂げようとする人類の新たな生命像である。我々にこの儚き種族を淘汰する権利があるだろうか。彼らの自由と希望を奪うことは、とても残酷なことのように思えてならない。

※3 嫌悪感とは言うが、なにも彼らを人として嫌っているわけではない。彼らと青春時代を共にする中で、彼らのような人種は他人に拒絶されやすいという現実を痛いほど見せられてきたから、どうしても彼らを同一化することができないのである。これは嫌悪というよりは、警戒や回避の行動に近いように思う。しかしそれは結果として嫌悪や軽蔑の感情に結びついてしまっている。どうして人間はこうも残酷な生き物なのだろう。

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