正義感という病|怒りをぶつけ正義を振りかざすことの不毛さについて考える

ネット上での議論や言い争いほど無駄なものはない。

何時間もかけて相手を説得したところで、その相手が他者の意見を受け入れてくれるはずもないからだ。もちろん中には建設的な者もいる。問題は一部の声の大きな人たちだ。

彼らの目的は真理の探求ではない。自身の正義を振りかざすことそのものが目的なのだ。不満や不安から逃れるために正義を主張している。自分を正当化するために人や社会を叩いている。動機がそもそも違うのだから、話が通じるはずもないのだ。

彼らは怒りをぶつけ正義を振りかざすことに快楽を見出している。私もこの気持はよく分かる。溜まった不満や不安を解消し、安心することが彼らの目的であり行動理由なのだ。

しかし、彼らの進む先に充足と幸福は存在しない。すぐに否定されてしまうからだ。他者からの批判や反発は新たな不満と苦痛を生む。そしてそのストレスから逃れるために、また新たな怒りをぶつけ、理不尽な正義を振りかざす。やられたらやり返す。その終わりのない不毛な争いを繰り返すだけなのだ。不安から逃れるための行動が、逆に新たな不満のスパイラルを生み出してしまう。

それはまるで出口の見えない迷路のような世界だ。そこにはもはや意義も正義も存在しない。刹那的な快楽の対価を払い続けるだけの不毛なループだ。快楽と苦痛は常にゼロサムの関係にあり、全てはゼロへと収束する。なんの蓄積もない。得られるものはなにもない。まるで依存症のようだ。最後にはストレスによる脳の萎縮とボロボロに崩壊した精神だけが残る。

執着や依存はもっと有意義なことに使うべきだろう。人生は短い。人生の貴重な時間はより良い経験や、芸術、音楽、人、食、文学との出会いに使うべきではないか。

人生の限りある時間は、嫌いなことのためにではなく、好きなことのために使うべきではないか。

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