元号改元とデウス・エクス・マキナ|神の存在について考える

元号は時代を象徴するものなので、残す意義は十分にあると思うのだけれど、日常生活では使いたくないなとつくづく思う。西暦との相互変換が面倒だし、合理的ではないし、利点よりも余計な労力や経済的損失のほうが上回っているような気がする。我々が日常的に触れる機会の多い役所の書類や、免許証、複雑な納税や年金のシステムも西暦で統一するべきだと思う。

ただ、元号が変わると時代の節目や変わり目を意識するからなのか、人々の考え方や世の中の流れも舵を切ったように大きく変わるようにも思える。この元号という存在は、人々の意識の中には無くてはならないもののように思えてならない。我々は常に新しい年や時代に希望を見出し、新たな一歩を踏み出してきたのだ。

時の流れを象徴するのが元号で、時の流れを生み出すのもまた元号なのだと思う。もちろん国民自身が意識を変えようとしない限りは何も変わらないのだけれど。元号改元はそのきっかけに過ぎないのだ。しかしそのきっかけを与えてくれるのもまた元号改元なのだと思う。

数十年後に平成という時代が「苦難の30年」や「忍耐の時代」と呼ばれているか、はたまた「終わりの始まり」の時代と呼ばれているかは神のみぞ知るのであろう。しかしその神は、我々の意識そのものに宿っているようにも思える。

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