暴走する正義感
現代のネット社会やSNSでは、クレーマーのように理不尽な要求を訴える者たちや、社会への不満を過激に訴える人々が急速に増えている。ヒステリックに物事を糾弾したり、精神的に不安定と思われるような支離滅裂な言動や主張・反論を行う者も多く見られる。思い込みや決め付けで人を叩き、自分たちの主義主張のために悪意のないものを槍玉に挙げ、相手の主張を論破するために屁理屈を並べ立て、揚げ足を取り、平気で論点をすり替えようとする。自分たちを圧倒的な正義と信じ、相手の主張を受け入れることなく、自らの過ちを認めることなく、他者を威圧し続ける。対応策や折衷案を模索していこうという建設的な姿勢は見られず、自分たちの要求を押し通すことしか考えられなくなっている。社会を良くするための議論ではなく、戦いに勝つための議論をしてしまっている。
憎しみと憎悪に囚われた者たち
やり場のない怒りを社会にぶつけ、結果として多くの他人を傷つけてしまうような、そんな救われない現状も見受けられる。小さな問題を大げさに誇張して混乱や争いを引き起こす者たちや、ありもしない問題を創作し、人々の不毛な対立を煽り、売名と金儲けのために都合の良い正義を主張する者たちもいる。正義の革命家を気取った彼らには目的の遂行しか頭にない。その間で起こる犠牲や社会の分断、多様性の排除には目もくれない。これでは傷つけ合うだけで何も前に進まない。反発や憎悪ばかりが生み出され続ける。サイコパス的な英雄は成熟した社会では通用しない。革命はもはや時代遅れではないか。現代に必要なのは早急なる革命ではなく緩やかな変革であろう。理性と冷静な対話がなによりも求められている。人々の心からの理解と自発的な意志がなければ社会は永遠に変われない。見せかけの進歩と平等になんの価値があるのだ。
ネットが生み出す共感と共鳴
このような憎しみと憎悪に満ちた社会が生み出されてしまった要因として、やはりインターネットやSNSの存在は大きいのではないか。ネットの普及によって、自分と同じような考え方を持った他者の存在を容易に認知できるようになった。それによって、自分は一人ではないのだという安心が得られるようになった。自分の考えは間違っていなかったのだという偏った確証や承認が容易に得られてしまうようになった。
おかしな事を言っても、それを肯定してくれる人がいるため、歯止めがかからなくなってしまう。おかしなことが許されてしまうと、それを見た周りの人たちも、安心して同じような振る舞いをとるようになる。現実世界であれば「神経質なクレーマー」や「狂人」といった扱いを受けていた行動も、ネット上の世界であれば複数の賛同者が得られる。そしてそれは多くの安心と団結、そして誤った確信をもたらす。自分たちの行動が、まるで本当に正しいことであるかのように錯覚してしまう。主張を押し付けられた周りの人間ですら、数の力によってそれが真っ当なものであると錯覚してしまう。そして人々は彼らの主張を決して無下にはできず、少数派の声として丁重に扱うことを強いられる。
自身にとって都合の良いコミュニティに浸り続けることで、小さく曖昧な疑心が次第に大きな確信へと変容していく。一部の仲間の過激な思想や憎悪が、まるで集団の総意のように感じられる。たとえそれらが正当性に欠ける主張や偏った意見であっても、自分たちにとって都合の良い「正義」とあらば目をつぶって受け入れてしまう。デマやフェイクニュースの流布にすら安易に加担してしまう。信じたい世界しか見えなくなり、信じたいものだけが真実となる。仲間意識や一体感、同調によって彼らの思想は際限なく先鋭化する。異なる複数の憎悪が互いに結合し得体の知れないドロドロとした存在になり果てる。そしてそれは目的を見失った理性のない怪物となってこの社会を壊し始めるのだ。
失われてしまった心の余裕
ネットの普及によって、人々は気軽に自身の不安や不満を他者へと共有/伝染できるようになった。他者を巻き込むことで、自分だけが不幸なのではないのだという安心感が得られるようになった。惨めな自分を晒して人々からの同情を得ようとする者や、自己顕示と承認欲求の充足に徹する者、現実から目を逸らして傷の舐め合いにふける者たちもいる。これらは自己満足や現実逃避、価値観の押し付け、同調圧力に過ぎず、全ては自分の安心のために、人々の憎悪を煽り、仲間を増やし続けようとしているに過ぎない。宗教ではなくネットという楽園が彼らの新たな拠り所となってしまった。本来であれば宗教や哲学、医学(医療)が果たすべきであった機能とその役割の多くを、ネットという存在が制御不能な形で不完全に代替してしまっている。既存の学問や教育では急速に膨れ上がる多様性の波に対応できていないのだ。現実世界で積み重なった不満や怒りのはけ口として、このデジタルが生み出す実体のない社会が実に都合良く使われてしまっている。そして彼らは気づかぬうちに、間接的に人を傷つけ、間接的に社会を壊し、後戻りの利かないデモやテロへと加担してしまう。
行き場のない不満を社会にぶつける人たち
彼らにとって物事の正しさは二の次である。彼らの掲げる正義や権利は自分たちの正当性を補強するための道具にすぎない。物事の正しさを主張したいのではなく、議論をしたいわけでもなく、単に憎悪を形にして発散したり、自身の不満を正当化したいだけなのだ。他人の幸福を妬み、嫉妬し、自分の置かれた状況を受け入れられず、世の中を壊すことでしか自分の居場所を見つけられない。恵まれない環境や貧しさ、不幸は人を哀れな怪物に変えてしまう。世の中に受け入れられない自分や社会を変えられないのなら、いっそのこと土台ごと壊してしまおう。そうやって怪獣のように、社会や人を憎み傷つけ続けるのだ。本当に求めているものがその先にあるはずもないのに、そこには自分たちの理想とする世界が待っていると頑なに信じている。
ネットという無意味で退屈な世界
ネットの中の閉じた世界では憎悪だけが拡大し続ける。それはいずれ他のコミュニティーにまで感染し侵食を続けるだろう。それらはまるでネットという名の生命の中でくすぶる癌のように、同胞同士の争いと分断を生み出し、いずれ文化の衰退と社会の崩壊を引き起こす。
戦争が無くなってもなお人々は闘いと破壊を求めてやまないのだ。たとえ国と国との争いが終わったとしても、今度は同じ国民同士の争いが始まる。倫理を捨て理性を失った我々人類に待っているのは不毛な争いと破滅である。