レディーファーストは女性差別か|男らしさという盲信|慈悲的差別と妄信的善意

今は何かするとすぐに差別主義とか女性蔑視とか言われる時代だから、おちおちレディーファーストもできやしない。綺麗な女性を見て「人形みたい」と褒めようものなら、すぐさま「女性をモノ扱いしている」と責められる。「酒も女も興味がない」と言えば、「酒と女を同等に語るのは不謹慎」と責められる。

ずいぶんと息苦しい世の中になってしまった。

善意や親切心で行ったことが悪意として受け取られてしまうのが現代社会の恐ろしい所だ。こじつけや見当違いの解釈でもって一方的に糾弾されてしまうケースも多い。女性に親切に接しても通報されたり「下心が見え見え」だと批判される。何をやっても叩かれるのなら、もはや我々は口を噤むよりほかない。そうやって冷たい無関心な社会が生まれるのだろう。

他にも、節分の豆まきは食べ物を粗末にする行為だといった批判がある。君が代や桃太郎のストーリーは軍国主義の象徴であるため排除するべきだという意見もある。今まで当たり前だと思って行ってきたことや信じてきたものが真っ向から否定されることに戸惑いを覚える。

今の社会は物事の正しさに囚われすぎだと思う。そもそも長い時間をかけてその本質と形を変え、慣習化し熟成しきってしまった文化そのものへの否定はそう容易なことではない。これは伝統や宗教に対しても同じことが言えるはずだ。

だからこそ我々は深く考えることなく社会の暗黙的なルールを律儀に守り続けてきた。男の使命を全うするべく、男性側から女性を誘い、女性を危険の少ない歩道側で歩かせ、重たい荷物やコートを代わりに持ち、女性の分の食事代を支払ってきた。学校や職場の中でも多くの場面で女性に配慮をし、肉体的・精神的な負担を男性側に背負わせてきた。なにかがおかしいと薄々気づきながらも、世の中の常識ならば仕方ないといって不満を抑えてきた。それが男らしさなのだと盲目に信じてきた。

だがしかしよく考えてみれば、男性が女性を優遇することは、女性が男性に守られなければならない弱い存在であるという価値観の押し付けに過ぎないとも思う。男性の盲信的な善意は女性の自立と社会進出、地位向上の妨げにしかならない。レディーファーストもまた女性を縛り付ける鎖に過ぎないのだ。

これらの問題はアメリカ社会における黒人配慮の考え方にも当てはめられる。黒人差別に反対し黒人を尊重しようと呼びかける白人の中には、黒人は自分たち白人に守られるべき劣った存在であるといった優越思想を持った者たちもいるかもしれない。黒人に配慮しろと言って黒人を腫れ物のように扱い続けることもまた、ある種の抑圧や差別と言えるのではないか。※1 ※2

問題は慈悲的な差別や盲信的な善意、盲目的な善意の見分けがつかないことだ。その区別を誤り、一方的な主観のみで偏った批判をすれば、建設的な議論を妨げ、不毛な争いばかりを生み出すことになる。現代のネット社会で行われている行き過ぎた論争や終わりのない不毛な争いはその結果だと思う。

また最近は文化や慣習ではなく、それを享受したり盲信したりする個人や集団を叩くような風潮があるように思えるが、それは誤った手順であり平和的な問題の解決には繋がらないと思う。

以前、黒塗りメイクが人種差別に当たるとして問題となったが、あの問題は執拗に日本人による差別意識にのみ焦点が当てられていたように思える。だが根本的な問題は、日本人によるアメリカ社会への認識不足や、文化・歴史への理解が足りなかった点にあったと思う。このようにして現代では巧みに論点がすり替えられたり、問題の本質に目が向けられないまま、ただ一方的な被害者意識のみが加速する傾向にある。

変化が早く情報過密で個人の声が届きにくくなってしまった現代のインターネット社会では、論点をずらした都合の良い問題提起や、印象的で格好のいい問題提起、簡単で分かりやすいやり方が好まれているようだが、そのような作為的で不誠実なやり方は、ただモラルの崩壊を引き起こすだけである。際限はなく、ただ終わりのない悪循環と醜い競争を生み出すだけである。人々の気持ちを弄び、不毛な対立を煽り、売名と金儲けのために正義を主張するような者たちを、無秩序に蔓延らせる。

正しさや理想を求めた先に終わりはない。時代によってその定義や感じ方は変わるだろうし、答えは永遠に見つからないはずだ。だからその時々で最善な妥協案を見つけていくほかないのだと思う。多くの人たちが思い描く正義や理想は、数十年程度の短いスパンで実現できるようなものではないはずだ。それを短期間で無理やり実現しようとするから対立が生まれる。悲しいことに、世の中は人々の暗黙的な合意と妥協で成り立ってしまっている。だからそれを少しずつ正していくしかない。このような社会において、盲目的な正義とその対極にある合理的な正義の両者は悪となんら変わらない存在とみなされる。それを理解しない限り世の中を変えることはできないと思う。現代に本当に必要なのは、速やかな革命ではなく緩やかな変革ではないだろうか。

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追記

ちなみに、筆者自身はレディーファーストに対して懐疑的な姿勢をとっている。根性論としての男らしさに対しても同様である。冒頭の主張・弁明は意図的かつ作為的なものであり、正義や正しさを否応なしに押し付けられる者たちの反発をトランプ現象よろしくステレオタイプに描いている。もっとも冒頭のような考え方を持った者たちを皮肉る意図はない。私自身、荷物持ちを率先して行うし、豆まきもするし、日本人であることを誇りに思っている。ちなみに豆は拾って食べる派である。日本には3秒ルールという世にも素晴らしい文化がある。

追記

※1 移動:つり目ポーズ問題と差別の助長|曖昧な偏見と差別の創造

追記

※2 ところで以前、私がまだ小学生だった頃、こんな場面に出くわした。

それはクラスで遠足の準備について話し合う時間での出来事だった。担任の先生が遠足に持っていく荷物やおやつの話をしている時に、××君が唐突にこう言い出した。

「○○君の家は貧乏なので遠足のおやつは皆一人30円までにしてあげるのがいいと思います」

私はそれを聞いて唖然としたものだ。

というのも、××君は○○君のことを心底嫌っていたからだ。彼は貧乏な○○君を執拗に馬鹿にし、悦に浸っているような下品で根性の曲がった人間だった。彼の日頃の攻撃には明確な憎悪が感じられた。

だから私には彼の言動が○○君への配慮には聞こえなかったのだ。○○君自身もあれは「余計なお世話だ」と後に語っている。クラスの中では一人30円までというルールに多くの不満が挙がったが、教師は××君の行動を平等で模範的なものと称賛し、結局は彼の意見が受け入れられることとなった。もっとも××君による○○君への陰湿なイジメがその後も無くなることはなかった。

私は幼いながらも、あれはある種の責任の押し付けであり、憎悪を別の形で表しているものだと悟った。

「○○君が貧乏で劣っているから、僕たちは彼に配慮しなければならず、縛られている」と、××君は自傷的とも言える行動でもってその現実をクラス全員に知らしめようとしたのだ。「おやつは一人30円までというこの結果は○○君が招いたものだ」と、暗に彼を攻撃していたのだ。

私はこの時、生まれて初めて、世の中にはなんと醜い人間がいるのだろうと恐怖し絶望した。

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