胡散臭い新興宗教を見かけなくなった。面倒な宗教勧誘も減ってきたように思える。原因はいろいろと考えられる。あの過去の教訓によって、人々が新興宗教に対して厳しい目を向けるようになったことも大きいだろう。
豊かな社会が宗教を求める
しかし、より本質的な理由は、人々の豊かさが失われつつある現代が宗教そのものを求めなくなったことにあると思う。現代人は不幸を不幸として認識していない。「周りもみんな不幸だから大丈夫だ、何とかなるだろう」という根拠のない安心感にすがっている。ネットの繋がりによって生み出される共感や一体感が宗教のそれに取って代わろうとしているように思える。
幸福な社会における敗者の孤独
人々が豊かな社会では、周りの人間がみな幸福に見えてしまう。そういった世の中では、不幸な人たちは相対的により不幸な存在となってしまう。自分たちが社会から孤立した孤独な存在だという現実を突きつけられる。その疎外感や不満、絶望の受け皿として、宗教は大きな役割を果たすことになる。
不幸な社会における敗者の団結
一方で、大多数の人間が不幸な社会では、不幸に対する感覚が鈍る。相対的貧困やブラック企業、低賃金、長時間労働は当たり前の時代という風潮によって、自分と同じように不幸な人間がいるという安心感や一体感が得られてしまっている。この時点でもう宗教に救いを求める必要はなくなる。ただどうにもならない現状に、みんなで仲良く身を寄せ合って耐えるのみである。敗者はもはや敗者ではなく、大衆となる。
豊かさが失われた不幸な時代の大衆が求めるものは、宗教ではない。おそらくそれは革命と戦争だろう。