壊れゆく個別主義|日本文化の「和」について考える

日本は他国の文化を柔軟に取り込んできた国である。その姿勢には既存のアイデンティティへの固着を感じさせない。ひたむきに理想を追い求め、潔いほど貪欲に文化を摂取し、柔軟かつ合理的に振る舞ってきた。曖昧な信仰心と正義への無関心さ、他人への無関心さと個人の自由への尊重、無関心なまでの寛容さと多様性を併せ持つ放任な日本人は、ある意味、他の国の民族とは一線を画す孤高のマイノリティと言えるかもしれない。文化の併合ではなく、文化の包容という道を取ってきたことが、この日本を日本たらしめてきたのだと思う。

日本という国は利己的な個人が自由気ままに個別の利益を追求した結果の産物なのだと思う。その姿勢は日本の文化の中にこそ根強く残っているように思う。優勢が劣等を淘汰することで先鋭化されてきた文化よりも、各々の理想の追求と高め合いによって育まれた文化こそが理想である。個々の意思の総体としての文化は何よりも美しい。異なる個性がお互いを引き立て合い調和する姿に深い畏敬の念を抱かずにはいられない。

異なる個性を持ったお互いが見えない繋がりを感じながら共に理想を求めてゆく。この見えない繋がりこそが「和」の本質ではないだろうか。和は同調ではなく調和であり共生なのだ。相手を認めれば、相手も自分を認めてくれる。お互いを理解し合う中で生まれる信頼と理想が協調へとつながる。このハーモニズムが多彩な文化の音色を奏でてきたのである。

自分の弱さを受け入れてもらうには、まず相手の弱さを受け入れなければならない。自分が寛容に接すれば、相手も同じように接してくれる。他者を守ることが自己を守ることに繋がっていた。和の精神はこの信頼関係の織りなす好循環によって成り立っていたのだ。

しかし集団の中の個人を強く意識させられる現代では、その気風も壊れつつあるように思う。それは日本人の気質と時代の潮流、社会の有り様が上手く噛み合っていないために起こっていることなのかもしれない。本来の日本人は争いを回避することによって自己の利益を守ってきたように思うのだが、現代ではその真逆のことが行われているように思う。自分が自由であるためには他人の自由を侵してはならないのだが、人々は不快なものにわざわざ近づいて潰そうとしている。自ら敵を作り出して不幸を増幅している。平等ではなく公平を求めるべきであり、集団ではなく個人(全体)を尊重するべきだと思うのだが、誰もこの昨今の矛盾に気づこうとはしない。その集団はいずれ全体を飲み込み、疑心暗鬼と悪循環に陥った社会を生み出すことだろう。

現代人は日本人としてのアイデンティティの本質そのものを失おうとしている。あるいは戦争が始まった時代から既にその魂を失っていたのかもしれない。現代人は相も変わらず「同調」という不協和音を発するだけの骨董品を大事に磨き続けている。戦後の我々は失ったアイデンティティを取り戻すことなく、新たなアイデンティティを確立することもなく、今に至ったのである。

世界はまた大きく変わろうとしている。他国の主流や風潮に流されることなく、本物の自由を追い求めたいものである。

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