輪の中の自由|なぜ日本人は「和」を重んじ「自由と人権」を拒絶するのだろうか

得体の知れない存在によって一方的に押し付けられる規範よりも、人々が生活の中で自然と受け入れ浸透した価値観を何よりも重んじること、それこそが日本人の根底にある宗教観であり、我々の精神の根幹をなすものではないだろうか。我々は神のために生きてきたのではなく、神と共に生きてきたのである。

日本人の価値観と行動には、漸進的で緩やかに内側から物事を変えていこうとする姿勢が感じられる。そのマイペースで穏やかな気質は、安全な島国に生きる日本人の民族性の表れかもしれない。

外側の脅威からいかにして集団を守り、先手を打つかを重視してきた他国の民族とは違い、日本人は既存の集団の和と平穏を守ることに注力してきた。この環境の違いが、両民族の思想と文化に大きな影響を与えている。

日本人の身内に対する異常なまでの寛容さは、人々を内側に引き止める手段であると同時に、良いものを見極め取り入れるための戦略であるようにも思う。そしてそれは他力依存を求める凡人と自由を求める才人の相互利益関係によって成り立っている。出すぎた杭は打たずに認め、信頼を得た身内に対しては究極の自由を与えるその放任主義的・権威主義的な姿勢にも特筆すべきものがある。

外の世界に終わりのない自由を求めるよりも、輪の中に無限の自由を見いだす、それが日本人のアイデンティティを形成する思想であり、我々の至った哲学なのではないだろうか。その思想は日本の芸術や文化の中にこそ根付いており、ひいてはそれが和の精神へとつながっているように思う。

現代の日本社会では、人々が欧米型の自由や平等、正義や人権を主張するようになり、全体の利益ではなく集団や個人の利益ばかりが過剰に求められている。だからこそこの日本という壮大な村社会を生きる人々は、その脅威に抗おうとしているのだとも言える。身内が身内でなくなってしまった、その裏切りを人々は非難しているのだ。

日本の社会や文化、生活の中には宗教的な考え方が自然な形で根付いており、それが人々の規範となっている。道徳や礼儀、風習、空気、世間体、恥といったものもそうだ。それらを重んじてきた社会から外れるということは、それらを放棄したものと見なされ、排除の対象になる。

「人を殺してはならない」「人を傷つけてはならない」という規律が成り立つのは、「自分が人を傷つけなければ、周りの人も自分を傷つけない」という前提を多くの人々が共有し守ろうとしているからだ。だからそのような様々な前提の上に成り立つ共同体の輪から外れようとする者たちが出てくれば、それは自分たちの脅威にもなりかねない。

昨今の日本人は欧米型の自由(=リバティ)や平等(≠公平)、利己的な正義や人権というものに極端な拒絶を示すが、それは自分たちの共同体とその秩序を守らなければならないという焦りや使命感からくるものなのではないだろうか。他人の利益よりも個人の利益を最大限に追求する自由を許してしまえば、節度と自制を重んじることによって平穏を保ってきた既存の社会は失われてしまう。モラルを守ることや、他人に配慮することが、巡り巡って自身の利益に繋がるという貴き価値観は永遠に失われ、人々は短絡的に己の利益ばかりを求めるようになる。このように、新たな思想が浸透してしまえば、既存の秩序や規範が覆されかねないということを、人々は無意識に理解し、危惧しているのではないだろうか。

際限のない自由を許してしまえば、自由のぶつかり合いが起こり、それは終わりのない不毛な競争と弱者の淘汰に繋がるからだ。そしてその弱者は、また別の新たな自由と平等を求めるようになる。また、「公平」を実現するためには全体の理解を求め、人々の自発的な意思を促す必要があるが、欧米型の個人主義や自由主義が流入してしまえば、それは成り立たなくなり、代わりに「平等」という異質のロジックを甘受せざるを得なくなる。また法律で規制されていなければ何をやってもいいという価値観は、日本人の倫理観からすれば到底理解しがたいものである。

そう考えれば、村社会や島国根性、排外思想もまた、内輪の平穏を守り文化と秩序の崩壊を回避するための防衛手段であるとさえ言える。偏った思想は往々にして分かりやすく人々に受け入れられやすい、故に分断や災いの元となる。だからこそ対立を忌避する者たちは面倒事を避けるために出る杭を打って新奇を排する。

日本人は個人の自由を担保するために全体を尊重してきたが、現代ではその全体そのものに馴染めないような人々や、集団の恩恵にあずかれないような人々も増えている。だからこそ、その者たちには人権と平等が必要なのだろう。欧米型の急進的な正義や自由と人権がこの日本で求められている現状は、これまでの日本のやり方が成り立たなくなってしまったということの一つの現れではないか。多数派もまた輪の中に居心地の良さを見出せなくなってしまった。全体の利益を重視するあまりに個人の犠牲に目をつぶってしまうような社会にも問題がある。日本人が人権や差別の問題に無関心を装うのは、そうやってあえて声を上げないことによって、自分たちの身を守ろうとしているためでもあるのではないか。人権や正義という技法を悪用する側にも問題はあるが、何よりも日本の漸進的な思想が昨今のグローバル化する世界に適応できなかったという現実、それは重く受け止めなければならない。

同時に、グローバリズムは西洋民族の気質に有利なものであり、島国を生きた日本人の国民性にはそぐわない不利な潮流であるという現実もまた受け入れなければならないとも思う。現代の日本人が抱える不幸の原因の多くは、実のところ、このグローバル化と自由主義がもたらしたものである。我々はその不条理な現実をも痛感するべきなのである。

グローバリズムの本質は奪い合いと強豪民族の勢力拡大に過ぎず、これは形を変えた現代の侵略戦争であり植民地支配なのである。昨今の人権先進国を自負する欧米人たちによる執拗なマウント行為や、価値観の押し付けもまた、民族的支配欲求の表れであり、とりわけ彼らの掲げるポリティカル・コレクトネスという存在はオリエンタリズムを超えた新たな支配様式であるとさえ言える。彼らは領土的侵略から経済的侵略の系譜を経て文化的侵略という新たな潮流へと舵を取ったのである。

彼らは自分たちを最上位の人種と位置づけ、愚劣な他民族を導く存在であり続けたいと願っている。他国の文化のアラ探しをし、お節介にも自分たちのやり方を強要し、同化を強いることによって、自分たちが正しい側にいるという確証を得ようとしている。「勝ったものが正しい」それが侵略者たちの論理である。

ちなみに、昨今の中国とアメリカによる対立は、ある種の民族的な闘争であり、見かけ上は共産主義と自由主義の対立構造が表立っているが、その裏には、アジア系民族と白人系民族による人種的な勢力争いの構図が隠れているように思う。

西洋民族の自尊心はこの数十年で大きく傷ついた。自分たちよりも劣った存在であったはずの東洋民族がその勢力を拡大し、人種的に優位であったはずの西洋民族の種の存続が脅かされようとしているこの状況に、彼らは大きな危機感を抱いている。

共同体の団結と帰属意識によって成り立っていた家族的経営を手放し、グローバル化を受け入れ、雇用の流動化の名のもとに派遣労働を主流化した日本社会の行き着く先には何があるのだろうか。それは外国人労働者の受け入れと移民の受け入れ、既存の文化、精神、秩序の崩壊、そして日本人のアイデンティティの消失だろう。あるいは戦前より文明開化の時代からすでにその魂を失い始めていたのかもしれない。明治維新によって日本の植民地化とそれに伴うアイデンティティの消失は免れたが、それはただの延命に過ぎず、消失を先延ばしにしただけだったのではないか。後戻りの効かない緩やかな死への道を、我々はひたすらに歩まされてきたのではないか。

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