日本人はなぜ文化の盗用を理解できないのか

文化の盗用に無関心な日本人

日本人である我々が、着物を着た外国人や、寿司を改変したカリフォルニアロールに対して文化の盗用を指摘しないのは、着物や寿司という文化を自分たちの弱者意識や劣等感を埋めるための誇りや道具ではなく、より普遍的でありふれた存在として認知しているためではないだろうか。変わりようのないほどに絶対的で不動の存在に思えてしまうがゆえに、文化が他国に奪われることへの不安も恐怖も感じないのである。もはやそこには余裕すら感じられる。

逆に日系アメリカ人はそれらの文化をより特別な存在と見なしている向きがある。彼らにとっての日本文化は、自分たちのアイデンティティを証明するための主要要素であり、マイノリティとしての拠り所なのである。ある意味、日本人よりも文化を愛している存在かもしれない。そんな彼らだからこそ、文化の盗用に対して敏感になってもおかしくはないのである。

むしろ日本人の方が自国の文化に対して無関心すぎるのではないか。身近なようで遠い存在にすら思えてくる。我々は個々の文化をより抽象的な存在として捉えているようにも思える。日本人にとっての文化はあくまで概念的な存在でしかなく、所有可能な物とは見なしていないのかもしれない。

つまり、文化は自分たちの所有物であるという意識と、その物への強い依存が、文化の盗用に対する反発の原因となっていると考えられる。

なぜ日本人は文化の盗用を理解できないのか

文化の盗用に対する反発は、外側で生まれた異質なコピーが次第にオリジナルを飲み込んでいくことへの恐怖であるようにも思う。自分たちが少数派で弱い存在であるという自覚が、文化の盗用に対する恐怖の根源となっているのではないか。抑圧され支配された経験がトラウマとなっており、文化の盗用という名の侵略がその過去の辛い歴史の記憶を想起させるのである。つまり、支配や抑圧への恐怖が文化の盗用に対する反発の要因となっていると考えられる。

だからこそ、他国からの支配や差別に晒されることなく安心で平和な島国で育った日本人は、弱者という意識を持っていないために文化の盗用の痛みを感じないのかもしれない。

逆に日系アメリカ人の場合は「白人社会の中の自分たち」というプレッシャーや弱者意識があり、実際に迫害や差別に対する恐怖に晒されてきた歴史がある。

人口の少ない少数民族の場合、彼らは誤った文化が広がっていく中でどうすることもできない立場にあるため、この場合の文化の盗用は絶望以上の何ものでもない。盗用され改変された偽りの文化だけが残り、本当の文化が忘れ去られていくことの恐怖と絶望は想像に難くない。

他民族から迫害されることもなく、ある種の単一民族国家に生きる恵まれた日本人は究極のマジョリティといえる。だからこそ無自覚に他民族を傷つけてしまう危うさがあるのだ。他国の文化への尊重を忘れずに生きたいものである。

文化の盗用と偽りの正義

少数派が多数派への鬱憤を晴らすために都合よく文化の盗用を利用している可能性も考えられる。つまり、白人社会の中で生きるマイノリティが、日頃のプレッシャーや抑圧によって積み重なっていた白人への憎悪や不満のはけ口として文化の盗用を都合よく利用しているという側面が考えられるである。

他にも、日本文化のメジャー化を快く思っていない他国の民族が、日本人やアジア系アメリカ人に成りすまして文化の盗用を意図的に主張し悪用している可能性も考えられる。

あまりにも複雑で歪んだ問題であるがゆえに、我々は文化の盗用を理解できなかったのかもしれない。我々が見てきた文化の盗用の問題の多くはあまりにも行き過ぎた物だったのかもしれない。我々は虚構を見せられていたのだろうか。

文化の盗用とオリエンタリズム

日本人は欧米人、とりわけ白人というものを自分たちよりも上の存在と見ており、彼らに受け入れられたことそのものに酔っている可能性すらある。だとすれば他国のオリエンタリズムに歓喜する日本人という構図にも見えてしまう。

近年では、つり目ポーズを批判する欧州人や、黒人蔑視に過剰に反発する白人が多く見られるが、これらも文化の盗用も、結局は自分たちの優越性を認識するための慈悲的な行為でしかないのかもしれない。

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