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他人の偏った意見に反論したくなる
無理に反論する必要はないのではないか。それとなく諭す程度でいいのではないか。ネガティブな意見を過剰に叩いたり晒したりすることによって、ネガティブな意見がかえって目立ってしまうこともある。結果として多くのネットユーザの目に触れてしまうことになる。
本当に手に負えない状態になったときに反論すればいい。仏の顔も三度までと言うではないか。
現実世界では他人の意見を真っ向から否定することはあまりない。しかしネットの世界ではそれが過剰に行われてしまっている。自分の考えや解釈に誤りがあったということに自ら気づく機会を与えられないうちに、否定の反応が返ってくる。相手の過剰な反応によって気づきや過ちを認めようとする感情や機会が摘み取られてしまう。そして相手の意見や説得を拒絶するようになる。後に引けなくなってしまう。
よって、高圧的な態度で無理に相手を正そうとしてはならない。反論や説得は相手の立場や考えを十分に理解し、相手の自尊心やプライドを傷つけないよう慎重に行わなければならない。
つまるところ、反論というものは実に面倒な作業なのである。本当に反論する価値のある意見なのかどうかをきちんと見極める必要があるだろう。弱い人間や臆病な人間ほどよく吠えるものだ。無駄な反論で時間を浪費し心の弱さや狭さをさらけ出す必要はないのだ。
それに自分が反論しなくても別の誰かが同じように反論してくれる(もっともそれは自身が多数派で、相手が少数派の場合の話であるが)。正義感で身を滅ぼすよりも怠慢に生きたほうが楽である。そう思えば、本当に必要なことは自ずと見えてくる気がする。
つい物事を否定したり叩いてしまう
物事の不満点ばかりが見えてしまうのは別に悪いことではなく、むしろ感性が鋭くなったということなので誇っていいことだと思う。ただその次元にいったのならもっと別の世界に触れたりして現状から卒業しないといけない。いつまでも同じ土俵で不満ばかり垂れていても良いものには出会えない。
過去の価値観だけで現代を語る老人
過去の作品で得た体験や感動に縛られて新しい作品を正当に評価できない人たちがいるように思える。過去の感動よりも大きな感動や新たな発見を求めて似たようなジャンルの作品を漁る。しかし実際には過去の作品を超える作品になかなか巡り会えない。この失望感が既存の作品を貶すという行為に少なからず繋がってしまっているのではないか。そして昔の作品は良かったとか、最近はいい作品が出なくなったといった不満を口にするようになるのではないか。過去に囚われすぎるのも考えものである。作品や世の中の変化を待つよりも、まず自分を変えなければならない。
世の中の変化に抗い、無理に自身の価値観を正当化しようとするよりも、素直に物事を受け入れてしまったほうが楽な場合もある。
どうしても叩いたり批判したくなった場合には、自分と同じような不満を口にしているネットユーザを探してみるのも良いかもしれない。共感することと共感を得ることは違うことのようにも思えるが、少なくとも自分と同じような考え方を持った者たちがいるという安心感は得られるだろう。他人の振り見て我が振り直せではないが、他人の言動から自分を客観的に見つめ直すこともできるかもしれない。それによって考えを改める機会も得られる。