エンジニアは文化の盗用の痛みを感じるか|マウンティングエンジニアについて考える

我々コンピューターオタク達は、テクノロジーが大衆に受け入れられていく過程で文化の盗用の痛みを感じ取ることはあるのだろうか。

他人の間違いに過剰に反発し、罵倒やマサカリを投げつけるエンジニアがいる。理想郷を守るために威圧的な態度で異物を排除しようとする怖いお兄さん達である。自治と秩序を守る正義のパトロール部隊である。彼らは誤った知識や認識が広まってしまうことに危機感を抱いているのだろう。これもある種の文化の盗用に対する反発と言えるのだろうか

プログラミングスクールの低品質な技術解説記事や「いかがでしたかブログ」の稚拙な解説記事を嫌悪する情報強者もまた、同様の憤りやライターへの侮蔑心を抱いているのかもしれない。無理解な大衆が金儲けのために集団の文化を搾取する。これもまた文化の盗用と言うべきものなのだろうか。

怪しいプログラミング教育ビジネスや、意識高い系のイキリエンジニアで溢れる昨今のIT界隈もまた、我が物顔でずけずけと入り込んでくる輩たちに対する反感や、不合理な世相、意識や認識のズレに苦しみ、文化の盗用の荒波に飲まれつつある。テクノロジーやプログラミングが大衆化の一途をたどる現代ではもはや避けられない現実である。プログラマは皆、注意深く賢いオタクや研究者ばかりだという安心の文化はもう存在しない。

ただこれらは果たして文化の盗用と言うべきものなのだろうか。

拒絶され抑圧の対象とされてきたアニメオタク達であれば、たしかにアニメが世間に受け入れられ大衆化していく中で文化の盗用の痛みを強く感じ取るかもしれない。自分たちを虐げてきた大衆が何事もなかったかのように振る舞い、自分たちの大切な存在を我が物顔で吸い上げていくわけだから、相当な憤りや悔しさというものがあるのだろう。

しかし尊敬や無関心の対象であったテクノロジーオタクは概して自分たちの存在や尊厳が侵されることはなく、負のマイノリティを意識する機会は少ないため、一般的な文化の盗用の考えには当てはまらないような気もしてくる。どちらかというと、自分たちのテリトリーが侵されていくことへの失望や、空気の読めない人たちへの苛立ち、大衆化によって自分たちのやり方が通用しなくなっていくことへの焦り、自身の優位性を保つためのマウンティング、といった単純な話なのかもしれない。要するに縄張り意識が強いだけなのではないか。内側に向かう恐怖であるため、文化の盗用というよりは、「文化の乗っ取り」や「文化の奪取」「文化の歪曲」と言った方がしっくりとするような気もする。

あるいは、もし仮にテクノロジーオタクの多くが学校生活や社会の中で抑圧されてきた少数派であると考えるならば、彼らはコンピュータの世界やテック業界を自分たちの拠り所としているという可能性も見えてくる。要するに、彼らは自分たちの劣等感を埋めるための対象としてテクノロジーを選択し、自らのアイデンティティの一部としたのである。そういう意味では、彼らも文化の盗用の痛みを感じる立場にあるという見方ができる。

よりミクロな視点で見た場合はどうだろう。

たとえばAppleの古参ファンはMacを長い間使ってきた誇りや驕りから、近年Macを使い始めた新参者のことを「意識高い系」や「ぽっと出のニワカ」と言って侮蔑したりするのだろうか。いやむしろ、それはめでたいことだと言って彼らを手厚く歓迎し、文化の喜びを共に分かち合おうとするのだろうか。

おそらくテクノロジーの世界、とりわけマニアックな分野では後者の考え方のほうが根強いように思う。相手が同族のオタクであろうと、対立するマジョリティであろうと、それは大して影響しないように思う。あれだけ「変人」や「世捨て人」と揶揄されてきたにも関わらずだ。そもそも彼ら探求者は自分たちを弱者としてのマイノリティだとは思っておらず、むしろ自分たちを特別な存在と思っているきらいがある。

テクノロジーは、それを理解することに多大な労力を要する。その過程で形成される自信や自尊心は相当強固なものであり、他者の参入程度ではそう簡単に揺らぐことはない。その文化の良いところも悪いところも全て受け入れ達観した者たちであれば、なおさら余裕と寛容さを持って接することができるはずだ。問題は中途半端な自信だけを持ってしまった人たちかもしれない。

つまり、明確な意志と好奇心を持って文化を深く理解し、その文化にどっぷりと浸かった人達ほど寛容で、浅く浸かった人達ほど排他的になる傾向にあるのではないか。

浅く浸かった人達とは、つまり文化の表層だけを理解し、その文化の甘い蜜の部分だけを享受し、文化のもたらす恩恵を自分たちの利権と見なしてきた人たちのことだ。そういう者たちにしてみれば、自分たちの特権が脅かされることの不安には相当なものがあるだろう。彼らにとって、文化とは自分たちの劣等感を埋めるための存在でしかないのである。拠り所であった文化が否定され奪われた後に残るのは剥き出しの劣等感だけである。だからこそ自分たちの存在を脅かす相手を否定するしかない。そこでまた自身の優位性を再認識することもできる。

表面的な知識だけで容易く注目されるニワカに嫉妬心を抱いてしまうのは、自己顕示欲が強いためかもしれない。他人が称賛される姿を見ることで、心の内に秘めいていた承認欲求が喚起されてしまうのだ。そして妙な焦りや後悔を感じる。それは本来自分がやるべきであったことを先にやられてしまったことへの後悔や、彼らを相手に競わなければならないという焦りかもしれない。自分の役割を奪われてしまったことへの苛立ちもあるだろう。また他人が認められると自分の価値が相対的に下がってしまったように感じられる。相手が自分よりも下の人間であれば、なおさら傷つき、反発の感情も大きくなる。

それなりに文化を理解してきたことの苦労とその自負はあるから、いい所だけを摘んでいくニワカはなおさら快く思えない。自分よりも下の人間が何の苦労も対価も負わずにいい思いをすることが腹立たしくてしょうがない。

自分がひた隠してきた欲望と同じものを持った相手が疎ましい。さらにその欲望に忠実に振る舞う相手が不快に思え、なおかつズルく感じる。

新人の姿に過去の自分を重ね、現在の自分と対比してしまう。そこには何の成長も見られないために自分の劣等性を再認識させられる。未来のある新人が輝いて見え、羨ましく妬ましく思えてしまう。

相手が自分よりも優位に立ってしまう材料を与えたくない。競うのが嫌だからライバルを増やしたくない。


このとらわれから逃れるには、文化の喜びを刹那的に享受する側に立ち返るか、文化の奥深さを究極的に探求する側に立つしかないと思う。文化の泉の水をすするか潜るかである。競争を諦めるか未知を探求するかである。その中間ではどうしても他者との比較にとらわれてしまう。後者では相当な努力と苦労を伴うかもしれない。上には上がいるということを認められる謙虚さも必要である。努力を努力と思わないような人間でなければ満たされないまま中間に留まってしまう恐れもある。

後者では、人からの称賛ではなく、物事の探求によって自信を身につけていくことが重要となる。他人からの評価こそが自分の価値であるという幻想は捨てなければならない。冒険の過程で他人からの評価や称賛が得られるかもしれないが、それはあくまでオマケと思うべきである。道で拾った100円玉のようなものである。小銭を拾うことに夢中になりすぎると目的を見失ってしまう。そして成長は止まり、同じ場所をぐるぐると歩き回るだけになる。

自分の現状を理解し、ゆるく生きるのも良いかもしれない。あるいは、自分の劣等感を埋めるための道具としての文化は捨て、本当の意味で愛せる文化や環境を見つけるのも良いかもしれない。

どちらにせよ、どんな生き方をしようとも、常に与える側となり、他人の幸せを喜べるようになることが何よりである。他人の喜びは究極の幸福である。その次元を目指すことが人生の意義であると言ってもいい。人は人のために生きてこそ生の充足を得られる。

まとめ

結局はどれもマウンティングや縄張り意識、独占欲、自己愛、同族嫌悪に過ぎないのかもしれないが、軽蔑の対象である大衆に自分たちの利益やアイデンティティの一部が搾取されていくことへの不満という意味では、文化の盗用の概念と多少なりとも重なる部分があるように思える。不安が内側に向かうか、不安の要因が外側に存在するかの違いでしかないのかもしれない。また文化が盗られるかもしれない不安と、文化が盗られたことへの不満という違いがあるようにも思える。

結局のところ、大衆化や文化の盗用に対する反感は少数派の中の少数派によって生み出されるものなのかもしれない。もしかすると、そこにはもはや少数派の中の多数派の意思はおろか、当事者の意思すら存在しないのかもしれない。

近年では至る所で文化の盗用が叫ばれ、議論と論争が巻き起こっているが、ひょっとすると我々は外野の乱闘やスタジアム内の観客と観客の殴り合いを見せられているだけなのかもしれない。

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